ゃこつ》長屋。
角に四つ手がおりて客を待っている。
「駕籠《かご》へ、駕籠へ。ええ旦那《だんな》、駕籠へ」
「ちょいと駕籠屋さん」女が駈け寄った。「神楽坂上《かぐらざかうえ》の御箪笥町《おたんすまち》までやっておくれ。あの、ほら、南蔵院《なんぞういん》さまの前だよ。長丁場で気《き》の毒《どく》だけれども南鐐《なんりょう》でいいかえ」
「二|朱《しゅ》か。可哀そうだな。一|分《ぶ》はずんでおくんなせえ。なあおい勘太《かんた》」
「そうよ、そうよ――しかし兄貴、いい女だなあ!」
「よけいなことをおいいでないよ。じゃ酒代《さかて》ぐるみ一分上げるから急いでおくれ」
「あいきた。話あ早えや。ささ乗んなせえ――よしか勘太、いくぜ」
つうい[#「つうい」に傍点]と駕籠の底が地面を離れると、た、た、たと二、三歩足をそろえておいて左足からだく[#「だく」に傍点]をくれる。あとは肩口のはずみ一つだ。
右へ折れて御門跡前《ごもんぜきまえ》。
ほうっ、ほっ。
えっさ、えっさ。
えっさっさ。
息杖《いきづえ》がおどる。掛け声は勇む。往来の人はうしろへ、うしろへと流れてゆく。
家なみの庇《ひさし》や紺暖簾《こんのれん》に飛びちがえる燕《つば》くろの腹が、花ぐもりの空から落ちる九つどきの陽《ひ》ざしを切って、白く飜えるのを夢みるような眼で、女は下からながめて行った。これも祭の景物であろう。やぐら太鼓の音が遠くにひびいている。
「えい、はあ!」
腰をひねって、駕籠は角を曲がる。
新寺町《しんてらまち》の大通りだ。
油を浮かべたような菊屋橋《きくやばし》の堀割りへ差しかかったとき、女は駕籠の垂《た》れを上げて背後《うしろ》を見た。と、あの執念深い折助《おりすけ》が、木刀を前半に押えて、とっと[#「とっと」に傍点]と駈けてくる。気のせいか、真っ赤な顔が意地悪く笑っているようだ。
「ほんとにどこかで見たような顔だよ」
つぶやいたとたん、女は何事か思い当たったとみえる。さっ[#「さっ」に傍点]と頬《ほお》から血の気が引いた。そして、ほとんど叫ぶように、甲《かん》高い声を前棒《さきぼう》の背へ浴びせた。
「駕籠屋さん、一両だよ。もちっと飛ばせないかねえ。じれったいじゃないか」
湯灌場買《ゆかんばか》い津賀閑山《つがかんざん》
紺絣《こんがすり》の前掛けさえ締めれば、どこから見ても茶くみ女としか踏めない客だし、それに何かいわくありげなようすだが、そんなことはどうでもいい、一両と聞いて駕籠屋は死に身だ。
刺青《ほりもの》の膚に滝《たき》なす汗を振りとばして、車坂《くるまざか》を山下《やました》へぶっつけ御成《おなり》街道から[#「街道から」は底本では「街頭から」]筋かえ御門へ抜けて八|辻《つじ》の原《はら》。
右手、柳原《やなぎはら》の土手にそうて、供ぞろい美々しくお大名の行列が練って来る。
挟箱《はさみばこ》、鳥毛の槍《やり》、武鑑を繰るまでもなく、丸鍔《まるつば》の定紋で青山因幡守様《あおやまいなばのかみさま》と知れる。
「したあに下に、下におろうっ――」
駕籠はひたひた[#「ひたひた」に傍点]とこれに押されて、連雀町《れんじゃくちょう》の横丁へ逃げこんだ。このとき、太田姫稲荷《おおたひめいなり》の上から淡路坂《あわじざか》をおりてくる大八車が二、三台つづいた。大荷を積んで牛にひかせているから、歩みがのろい。
一時、あたりは行列で混乱し、今来た道は荷車でとだえた。駕籠屋は駕籠を下ろして往来の人といっしょに、大通りを往《ゆ》く行列を見物していた。ほんの一瞬間、が、人の気はむこうへ取られて、駕籠はちょっと物かげになった。
と見るや、すばやく履物《はきもの》をそろえて、女はすこしも取り乱さずに、するり[#「するり」に傍点]と駕籠を抜け出ると、べつに跫《あし》音を盗むでもなく、鷹揚《おおよう》に眼の前の一軒の店へはいって行った。
ほの暗い古道具屋の土間。
「いらっしゃいませ」
茶筌《ちゃせん》頭の五十|爺《おやじ》、真鍮縁の丸眼鏡《まるめがね》を額部《ひたい》へ掛けているのを忘れてあわててそこらをなでまわす。
「あの、しばらく」
とそれを制した女、にっと白い歯を見せたかと思うと、表からは見えない戸の内側へ、ぴったり蝙蝠《こうもり》のようにはりついた。
老爺《おやじ》はあっけにとられている。
まず大八が通り過ぎた。
すると、例の悪しつこい仲間奴《ちゅうげんやっこ》が、遠くに駕籠をにらんで立っている。駕籠は駕籠だが、これはもう藻抜けのかご[#「かご」に傍点]だ。しかし、奥山からここまで女をつけて来るなんて、いったいこの男は何者だろう?
そういえば、かくまで男の手からのがれようとする女も――?
嬉し野のおきんも眉唾者
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