りてすましたのだろう、手ぬぐいは持っていなかったが、ほんのりとした顔や首筋の色艶、確かにあれは風呂《ふろ》のもどりのようだった。それに、神田で駕籠屋に聞いたところでは、神楽坂お箪笥町《たんすまち》の南蔵院前まで行くようにといったとのことだが、これはどうせでたらめ[#「でたらめ」に傍点]にきまっていらあ。
あいつ、俺の意中《こころ》を知ったら、よもやああまでまこうとはしなかったろう。いや、それを感づいたればこそ、あんなに智恵を絞って後白浪《あとしらなみ》と逃げたのかもしれぬ。あの女が果たしてあれ[#「あれ」に傍点]なら、昨日ぐらいの芸当は朝飯前のはずだからな。
が、どっち道、広いようで狭いのがお江戸だ、いずれそのうちにまた顔が合う。
今度見かけたら――。
しょっぴいて引っぱたいて、一件[#「一件」に傍点]の泥《どろ》を吐かせて、みごとおいらが手柄《てがら》にするか? 一件とは何だ?
なあに、それよりゃあ――とここまで考えて来て、安兵衛はにっ[#「にっ」に傍点]と笑った。
「湯上がり姿にゃ親でも惚れる、ふふふふ、こいつあ存外《ぞんげえ》面白えぞ」
なに、面白いものか。女のことをひとり胸に畳んで、手前の親分いろは屋文次にさえぶちまけないのを変だと見ていたら、それも道理、お役徳という小者根性から、虎の威を嵩《かさ》にきてだいぶちょくちょく[#「ちょくちょく」に傍点]うまい汁《しる》を吸っているものとみえ、御免安のやつ、何かとんでもないことをもくろんでいるらしい――。
ところへ、
「お前さん、何だねえ、寝てばかりいてさ。根が生えるじゃないか。親分さんとこからお迎いだよ、すぐ顔出すようにって」
と女房のお民が、濡《ぬ》れ手をふきふき水口からがなり立てたので、安兵衛、悪いところでも見られたように、起き上がりこぼしみたいにむっく[#「むっく」に傍点]と立ち上がって、
「はてな、いま帰ったのに、急にまた何用だろう――?」
小首をひねったが、考えるよりは行ってみたほうが早いと気が付いたから、気と口と尻と、軽いものずくめの御免安、たちまち、
「ありゃ、ありゃ、ありゃあい!」
と威勢よく駈け出して使いよりも早く、
「ごめんやす」
とばかりに、伊呂波寿司の暖簾へとび込んで行くと――驚いた。
結城《ゆうき》の袷に白の勝った唐桟《とうざん》の羽織、博田《はかた》[#「博田」はママ]の帯に矢立てを差して、念入りに前だれまで掛けた親分の岡っ引きいろは屋文次、御用の御の字もにおわせずに、どこから見ても相当工面のいいお店者《たなもの》という風俗で、待遠しそうに土間の框《かまち》にきちん[#「きちん」に傍点]と腰をおろしている。
「安、御苦労だがな、ちっ[#「ちっ」に傍点]とわれのからだを借りてえことがあるんだ」
「へえ、何でごわす?」
「なあに、半ちく[#「ちく」に傍点]仕事よ。ま、つきあってくんねえ。途々《みちみち》話すとしよう」
自分の頼みだけ頼んでしまうと古手屋津賀閑山はさっさ[#「さっさ」に傍点]と先に帰ったと見えて、他には誰もいない。したがって安兵衛には、何だかいっこうにわからないが、その場の出幕以外に、絶えて通しの筋趣向というものを、終了《おち》までは誰人《たれ》にも明かしたことのないいつもの文次親分を知っているから、安も、
「あい、ようがすとも」
とがっくり[#「がっくり」に傍点]うなずくと同時に、さては死に花の探索に思わぬ眼鼻がついたのか、あるいはあの、満願寺屋《まんがんじや》水神《すいじん》騒ぎの一件か、それとも、ことによったらいろはがるたの――ではあるまいか、ともう歴然《ありあり》と持ち前の気負いを見せて来るのだ。
それにはかまわず、銀磨きを掛けたばかりの十手を、くるくると袱紗《ふくさ》包みにして、すっぽり懐中《ふところ》へのむと、そいつを上からぽん[#「ぽん」に傍点]と一つたたいて、文次は先に立って浮世小路の家を出た。
一歩踏み出すと、世はまさに陽光の世界である。
お捕物《とりもの》の出役。なに、それほどのことでもないが、若いころの源之助《たんぼのたゆう》そっくりないろは屋が、ふところ手の雪駄《せった》ばき、花曇りの空の下をこうぶらり[#「ぶらり」に傍点]と押しだしたところ、これが芝居なら、さしずめ二つ三つ大向こうから声がかかろうというもので、粋《いき》な三味《いと》がほしいような、何ともうれしいけしきである。
春霞《はるがすみ》ひくや由緒《ゆかり》の黒小袖。
名にしおう日本橋の大通りだ。
ずらりと老舗《しにせ》がならんでいる。
右へ向かって神田。
焙烙《ほうろく》で、豌豆《えんどう》をいるような絡繹《らくえき》たるさんざめき、能役者が笠を傾けて通る。若党を従えたお武家が往く。新造が来る。丁稚《でっ
前へ
次へ
全60ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング