るものとは思われない。そうすると、やっぱり鎧櫃は饗庭の屋敷へ行っているのだろうが、そんなら気軽に渡してくれてもよさそうなもの。それをああ剣もほろろにしら[#「しら」に傍点]を切るとは、どうも変だ。
こう考えて来ると、閑山いても立ってもいられないのでふだんは毛虫《けむし》のようにきらっている岡っ引きのところへ、鎧櫃の取りもどし方を頼みに来たのだ。文次は黙って聞いている。
「一刻も早く出しませんと、その、役に立たなくなる大事な物がはいっておりますんでどうでがしょう親分、一つお手掛けなすって、ここ二、三|時《とき》のあいだに手に入れてくださるというわけにはまいりませんでしょうか。お礼は、へえ、まあ、百金」
「なに、百両?」文次はびっくりしてすわり直した。そして、
「ふうむ」とうさん臭そうにくちびるをかんでいる。
「軽少ですが、どうでしょう」閑山は乗り出した。
「いったい何ですい、品物は」
「鎧櫃ですよ」
「いや、鎧櫃はわかっているが内部《なか》の物さ」
「こ、小判ですよ。小判が五百両」
「五百両? なるほどでっけえな。で、先じゃあ受け取らねえというんですね?」
「はい、さようで」
「ところがお店の久七どんは確かに渡したと――」
「はい」閑山は気を詰めて、文次の答えを待っている。
「ちっ、困ったなあ」腕組みをほどいた文次が、「この稼業《しょうべえ》ばかりは何からどう糸を引くかしれねえから、では、ちょっくら出張って――」
閑山は平蜘蛛《ひらぐも》のように額を畳にすりつけた。文次はたち上がる。
「姉《あね》さん、そっちの帯を出して。そいから、すまねえが、雲母橋《きららばし》へ走って、安にすぐ来るようにいって来てくんねえ」
湯上がり姿にゃ親でも惚れる
そうだ、違《ちげ》えねえ――。
あの女、あの女、紛れもねえ彼奴《あいつ》だ。顔にこれ[#「これ」に傍点]ぞという眼じるしがないのも、一点非の打ちどころがなければこそで、ああ生きの好い江戸前の小魚が、そうざら[#「ざら」に傍点]におよいでいるわけはない。
待てよ。眼じるしがないとはいわさぬ。
まなざし口もと、あれが何よりの人別ではないか。恋の諸分《しょわけ》によくいうやつだが「眼も口ほどにものをいい」全くだ、あれは無情の石でも木でも草でも、眼に映る物なら何にでも色をしいている眼だ。あの女に見られた男は、誰でもただじろりやられただけで、ぞっと襟《えり》もとから恋風を引き込む。
そうだ、違えねえ。
あの女、あの女、紛れもねえあいつ[#「あいつ」に傍点]だ。
昨日の正午《ひる》、藪《やぶ》の内まで用たしに行ったついでに、祭の景気を見に随身門から境内へはいって、裏手念仏堂から若宮|稲荷《いなり》へかけての人ごみの中を、あわよくば掏摸《すり》の一人も揚げるつもりでさんざ[#「さんざ」に傍点]ほうつきまわった末、かねがね顔見識りの水茶屋嬉し野の床几《しょうぎ》へ腰を掛けると、儲け潮にうるさいやつ[#「やつ」に傍点]が舞い込んだものと思ったらしく、
「おや、親分さん、ようこそお越しでござんした」
親分さん、と来た。そして、看板女《かんばん》のおきんに茶をくませて出したが、その湯呑《ゆのみ》の下に、案の条、二朱包んであった。奴体《やっこてい》に、出盛りの店頭をふさがれてはたまらないから、何にもいわずにわかってもらおうという袖の下だ。心得て立ち上がったとき、ちら[#「ちら」に傍点]と見たのがあの女である。
そこはこっちも八丁堀お箱持ちの端くれ、決してむだに歩いてはいない。こぼれ[#「こぼれ」に傍点]があったらいつでも拾う気でいるところへ、その女のことが、
「や! あれ[#「あれ」に傍点]じゃないかしら?」
ぴいん[#「ぴいん」に傍点]と頭へ来たことがあるから、
「そこへ行くのは嬉し野のおきんさんじゃあねえか」
と一つ、時代にぶっつけておいて口裏を引いてみると、女は何にもいわずにまじまじ[#「まじまじ」に傍点]とこっちの顔を見ていたが、そのうち捨て科白《ぜりふ》を残して逃げ出した。しかも女だてらに辻駕籠を飛ばして、神田連雀町の横丁で小器用に抜けやがった。
ううむ、違えねえ。
あれ[#「あれ」に傍点]に相違ねえ。
――浮世小路から帰って来た御免安兵衛、雲母橋際《きららばしぎわ》の裏店《うらたな》に寝そべって、しきりに昨日のことを考えている。
二本の脚を柱へ突っかえて、あおむけのまま、黄色くなった畳のけば[#「けば」に傍点]をむしっているのだが、さすがに戸外《そと》は春、破れ障子にも日影が映えて、瀬戸物町を往く定斎屋の金具の音が手に取るよう――春艶鳥《はるつげどり》の一声、あってもいい風情《ふぜい》だ。
あの女は――と御免安、柄にもない物思いにふけりつづける。
湯屋のを借
前へ
次へ
全60ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング