ち》が走る。犬がほえる。普化僧《ふけそう》が尺八を振り上げて犬を追っている。文次は安と肩をならべて、黙りこくって歩いて行く。
話は途みちするといったくせに、何一つ口火を切らないうちに、二人は柳原の火除《ひよけ》御用地へ出てしまった。すると、思い出したように立ちどまった文次、
「安」
「へえ」
「汝《われ》あ何か、湯島妻恋坂上のお旗下、饗庭亮三郎様のお屋敷てえのを知っているか」
「へえ。知ってますよ。知ってまさあね。あっし[#「あっし」に傍点]ゃあね、以前《まえかた》よく、三組町の御小人長屋へ行きやしたから――」
「手慰みか」
「あわわ、いえ、なにその、へへへへ」
「まあいいや。それで、饗庭の屋敷は知っているというんだな」
「へえ」
「安、お前はな、これからその足で妻恋坂へ出向いて、それとなく、その饗庭の屋敷を張り込め。何だぞ。大きな荷が出たら跡をつけて、行き先を見届けるんだぞ。大きな荷だ。わかったか」
ききかえすことは許されない。安兵衛、いささかぼんやりしていると、
「俺はちょっくら寄り道して、すぐに屋敷の前で落ち合うからな、きっと俺が行くまで待っていろよ。よしか、わかったな。さあ、行け」
「あい。ごめんやす」
で、親分と乾分《こぶん》は土手の柳の樹の下で、左右に別れたのだった。
初見参は妻恋坂の殿様
「おう、小僧さん、ちょっときくがな、饗庭《あいば》さまのお屋敷はこれかね?」
それらしい門の前で、文次が確かめようもなくて困っていると、ありがたいところへ酒屋の御用聞き、生意気にうろ[#「うろ」に傍点]覚えの端唄《はうた》かなんかを、黄色い声で鼻に歌わせて通りかかった。これへ文次がこう声をかけた。
「ああそうだよ。これが饗庭様のお屋敷だよ。だが、お前さん何の用だか知らないけれど、お金や商売のことなら、悪いことをいわないぜ、よしなよしな。ちっ、こんな払いのきたねえ家ったらありゃしねえ。あばよ、さば[#「さば」に傍点]よ、さんま[#「さんま」に傍点]の頭だ」
おしゃま[#「おしゃま」に傍点]な小僧、むだ口をたたいて行ってしまった。
ふうむ、よほど踏み倒すと見える。これはちと相手が手ごわいかな。ま、そんなことはどうでもいい。
が、いったいどうしたというのだ?
またしても安の野郎、明らかにどじ[#「どじ」に傍点]を踏みやがって、この邸を見張ってここで俺を待つように、あんなにいっておいたのに、それにどうだ、影も形もない!
あれから小半刻、どこをうろついているのだろう。そのあいだに何が持ち出されたかしれやしない。
むっ[#「むっ」に傍点]とした文次、往来の上下を睨《ね》めまわすと、屋敷町の片側通りだ、御府内といえ、一つ二つ横町へそれたばかりなのにもうこの静けさ、庫裡《くり》のように寂寞《ひっそり》としたなかに、八つ下がりの陽《ひ》ざしがやけにかんかん[#「かんかん」に傍点]照り返って、どの家からともなく、美しい主をしのばせぶりに、ころりんしゃん、かすかに琴の音がもれている――。
あてにならない御免安を、いつまで怒っていたところで果てしがないと気が付いた文次は、ふ[#「ふ」に傍点]とわれにかえったように、改めて眼の前の、饗庭の屋敷というのへ瞳《ひとみ》を凝らし出した。
禄高《ろくだか》四百石、当時|小普請《こぶしん》入りのお旗下饗庭亮三郎が住まいである。
一口に旗下八万騎といっても、実数は二万五千から三万人、その中に一万石譜代大名に近い一《ぴん》から槍一筋馬一頭二百石の十《きり》まであって、饗庭はどっちかといえば、まずきりに近いほうだから、この屋敷にしたところで五百|坪《つぼ》はないくらい、決してたいした構えではないが、それでも格式だけは大事にして、明様《みんよう》の土塀《どべい》に型ばかりのお長屋門、細目に潜《くぐ》りをあけてのぞくと、数寄屋詰道句風《すきやづめどうくふう》をまねた前庭の飛び石づたいに、大玄関の敷台が見えて、何年にも手入れをしないらしく雑草にうずもれて早咲きの霧島《きりしま》がほころびているぐあい、とにかく、町人づらをおどかすだけのことはある。
すばやくはいり込んだ、文次、折よく誰にも見とがめられずに、追われるように表玄関へかかって、土間に立って案内を乞うた。
「お頼み申します――お頼み申します」
しいん[#「しいん」に傍点]として、人の気配もない。
広い邸内《やしき》に反響《こだま》して返って来る自分の声を聞いたとき、何となく文次は、ぶるる[#「ぶるる」に傍点]と身ぶるいを禁じ得なかったが、気を取り直して、もう一度。
「おたのうもう――」
とやろうとすると、
「誰だ」
低い、けれども霜のように冷たい声、それが、意外にもすぐ前でしたから、文次はちょっとどきん[#「どきん」に傍点]
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