れだけを一個の保証と見て、文句なしにはいることを許して差しつかえないわけだが、出て行った者の口からもれようも知れぬ。しかし、この点は実に看視が行き届いていて、訴人はもとより、すこしでも井戸のことを口外しようとするものは、いつどこからともなく襲ってくる不慮の死によって、永遠にその口をとざされてしまうのが常だった。
で、来る者は来り、去る者は去って、無言に沈み、暗黒に生きながら、夜も昼もない井底の生活はつづけられてゆく。
誰が誰やらわからない。
人殺し凶状《きょうじょう》もいよう。博奕《ばくち》喧嘩《けんか》で江戸構えになっているやつもいるかもしれない。また、このごろの物やかましい世の中だ、幕吏につけねらわれる諸藩の浪士も、入りこんでいないとは誰がいい得る?
だが、いっさいわからない。いっせいに黒い袋をかぶって黙々として微動し、うごめいているばかり――もし、ここへ御用の者でも来て片っ端からその頭巾をはぎ、顔をむき[#「むき」に傍点]出しにしてならべたならば、何年、何十年来のお尋ね者を発見し、思わぬ人物を見いだし、これは? とのけ[#「のけ」に傍点]ぞるようなことが起こるかもしれない。
それよりも、互いにはじめて見る顔の中には、子は父を、姉は弟を発見して、どんな人間の悲喜が交錯することであろうか? 仇敵《かたき》同士もいよう。別れた恋人も潜《ひそ》んでいるやもしれぬ。めいめいに秘めためいめいの半生、それが何であろうと、この井底の大部屋では、いっさいが黒である。一色の黒である。
互いに識らぬ三百の黒法師のむれ。
このなかに誰がいることか――それはわからないが、ただ、二人の人間が紛れこんでいることは確かだ。
人魚のお蔦と手枕舎里好。
が、それも今では、同じ装《つく》りの多人数に呑まれて、二人は離れ離れになっている。
姿見の井戸――これはそもそも何であろう? どうして人々はここへ集まってくるのか? いかにして井戸の底へはいりこむのか? 制服のような黒い袋はいったいどこから来るのか? 何のための宿泊か? 集合か?
これが、ここへ来て数日、お蔦のこころをとらえた疑問であった。と、そのすべてが自ずと解かれる期《とき》が来た。
白衣《びゃくい》――それは白い袋の謎《なぞ》である。
誰が誰やらわからない
それこそ烏羽玉《うばたま》の夜だった。
人魚のお蔦が手枕舎里好に伴われて、三味線堀の家を出てから、黙って里好について行くと、里好はあれから、神田明神下へ出て、深夜の妻恋坂を上って行った。
この上の家にはお蔦にとっていやな思い出がある。神田連雀町の閑山の家から、鎧櫃にはいって出て、飯たき久七の間違いで、届けられた饗庭の影屋敷、そこでの恐ろしい記憶は、まだお蔦の心にからんでいた。
で、二、三軒先を行く里好にきいてみた。
「あの、どこへ行くんでございましょう? その姿見の井戸というのはいったいどこなんでしょうか?」
が、里好はそれには答えず、星屑のこぼれるような空を仰いで、ただ坂を上る足を早めた。
お蔦は軽い不安にとらわれざるを得なかったが、今となってはひくにもひけないし、この里好という人についてさえ行けばたいした心配はないような気がする。仮にまたあの家へ行くにしても、何か機械《からくり》のありそうな影屋敷の内部《なか》をのぞいて見ることも、何となくお蔦の好奇心をそそのかすのだった。
里好が振り返った。
「誰が誰だかわからんのが姿見の井戸の底のみそ[#「みそ」に傍点]なんだから、あんたも女ということを気づかれんように、なるたけ物をいわずに、いうときには太い声を出して、できるだけ活溌《かっぱつ》にふるまいなさい。なに、みんな脛《すね》に傷もつ連中ばかりだ。たいしたことはない」
そのうちに坂を上りきると、立売坂の中腹に、饗庭家と同じ造りの影屋敷の門が見える。そこまで行くと、里好はまたお蔦を顧みて、
「ここだ」
と、一言。
どんどん中へはいって行く里好につづいて、お蔦も門をくぐりながら、この家なら一度来たことがある。実はここから逃げ出したところを追っかけられて、お前さんに助けられたのだと里好に話したかったが、その暇もなかったし、また彼女の中の用心深い何物かが、いい出そうとする彼女の口を、ことばにならない先に押えてしまった。
門をはいると荒れ果てた小庭。
それについて背戸のほうへまわると、そこに夜目にも白く冷たく石で囲った大きな井戸があるのがお蔦の眼にはいった。
里好は再び振り返って、
「これだよ、驚いたかね」
と、いったかと思うと、やにわに変なことを始めた。足もとを見まわして、小石を一つ拾うが早いか、そいつを、ぽんと井戸の中へはうり込んだのである。
ぽちゃり[#「ぽちゃり」に傍点]という水音。何だ
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