の門へへえりやしなかったか」
「へえりましたよ。坂下から来た二人がね」
「うん。そうだろう。それが内藤伊織と帝釈丹三だ」
 こういって文次は、草の上に腰をおろして、手短かに話し出した。
 連雀町の津賀閑山方へ二人が押し込みにはいっているところへ文次が飛びこんで行った。そしてとうとうしまいに二人を相手に大立ちまわりとなったのだったが、文次は手当たりしだいにそこらの物を投げつけながら、火事だ、火事だ! と呼ばわった。すると、これにはさすがの二人も僻易《へきえき》して逃げ出したので、文次も続いて飛び出し、ここまで見え隠れに跡をつけてきたのだという。文次は笑った。
「おかげで閑山の店はめちゃめちゃだし、神田|界隈《かいわい》は火事と聞いて大騒ぎをやってらあ」
「親分」安が眼を光らせた。「この侍を斬ったのは、この人が[#「この人が」は底本では「この人を」]つけてたもう一人の侍だがね。そいつもあの屋敷へ逃げこんだ。それがね親分、肘を斬られてて血がたれてましたぜ」
「ふうむ。血を引いて行ったか」
「あい。明日その跡をたどってみやしょう」
「そうだ、夜が明けたら出直して来て、その血のあとを頼りによく屋敷の周囲《まわり》をあらためてみよう。今夜はこれで――安、ご苦労だが、その人をかついでってくれ」
 文次と安、気絶している守人を肩に、ともかくその夜は帰路についた。
 歩きながら、話し合っている。
「その二人づれの今夜の押し込みてえのが――ことによると烏羽玉組《うばたまぐみ》じゃあごわすめえか」
「われもそう思うか。実あおいらもそこらが見当だ。安! これあひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると大芝居《おおしべえ》だぜ」

   井底に潜《ひそ》む黒衣のむれ

 ここは井戸の底である。
 といったばかりではいかにも唐突《だしぬけ》だが、井戸の下に広がっている茫漠《ぼうばく》たる大広間だ。
 ところどころに青竹が立って、それに裸蝋燭《はだかろうそく》がさしてある。そのぼんやりした光で見ると、おびただしい人間の群れが、あるいは壁にそってすわり、あるいは床に寝そべりあるいは円形を作って立ち話し、あるいは忙しげにそのあいだを歩きまわっている。
 三百人もいようか。
 まるで海豹《あざらし》の大軍が、乗るべき潮流を待って北海の浜にひなたぼっこをしているようである。何たる奇観! なんたる異象!
 しかも、よく見ると、その全部が、その一人ひとりが、世にも奇怪な服装をしているのだ。いや、服装というのは当たらぬ。これは服装ではなくて袋、そうだ、単なる黒い袋といったほうが妥当かもしれない。
 こころみに、手近の一人をとって観察するに、頭から足の爪先《つまさき》まで、一枚の黒い布に包まれているのだ。手も脚《あし》も黒いだぶだぶの袋だ。
 つまり、頭から四肢、胴体といったぐあいに、人間の形にできている黒衣の袋、それへ人間がはいって、手首と足首とで胴体を締めているので、おまけに手には黒の手ぶくろ、足には足袋《たび》ようのものをはいていて、頭には袋に作りつけの頭巾《ずきん》をかぶっているから、外部《そと》から見えているのは、両の眼がのぞいているだけだ。どこからどこまで黒いぶくぶく[#「ぶくぶく」に傍点]の袋が歩きまわっているとしか見えない。
 なるほど、こうしていれば、たとい何人集まろうと、どこの誰だか、いや、男だか、女だか少年だか老人だか、お互いにさえいっさいわからぬわけである。異様といおうか怪絶といおうか、ただもう妖《あや》しいながめであった。
 この同じ服装《なり》の人物が無慮三百人もうろついているのだ。
 名山の本堂のような、お城の評定の間のような、見渡す限りの広やかな部屋である。四方の壁は丸太で組み上げて、天井は荒板張りの籠《かご》編み、水気をいとってところどころに粘土《ねんど》が塗りつめてある。床には筵《むしろ》が何枚も敷き詰めているとみえて、誰が歩いても跫音《あしおと》がしない。
 あちこちに夜具の山が見えるのは、この連中が寝るとき用いるものであろう。おぼつかない蝋燭の光が全体をかすかに、悪夢のように照らし出しているのだ。
 どこだろう、いったい?
 いうまでもない。江戸中の大悪党の寄合い所といって、手枕舎里好がお蔦を連れ込んだ、あの妖異きわまる姿見の井戸である。
 去る者は追わず、来る者は拒まず――これが姿見井戸の金科玉条であった。士農工商のいずれを問わず、また、いかなる罪を犯したものであろうとも、あるいは事実は綺麗なからだであろうとも、何でもいい、誰でもいい、はいって来る者にはいっさいの休安と保護とを与えて、出て行くまでとめておくのが、この、浮世とは関係《かかわり》のない地下の娑婆《しゃば》であった。
 すでに、井戸へはいってくるだけの秘密を知って来る以上、そ
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