か井戸にしては浅そうだ。
と、お蔦が思っていると、里好の声が耳近くで、
「裾《すそ》をぬらさねえように着物を引き上げるといいんだが、あんたはそうもゆくまい。まあ騒がずに、黙ってはいって来るがいい」
こういって里好は、裾を引き上げて井戸をまたいだ。井桁《いげた》の内側にちょうど足場になるような具合に、ところどころ石が欠けて、引っかかりの穴ができている。それを伝わって、水面までおりた里好は、ためらうことなく、片足をざぶり[#「ざぶり」に傍点]と水の中へ突きおろした。ほんの踵《くるぶし》ぐらいまでの水である。
水が濁っているので、昼間見てもちょっと深浅がわからないのだが、空の色や、井戸の上にのぞく木の梢《こずえ》を写して、どんよりとおどんでいるところ、上からのぞいた人は、まさかこんなに浅いとは気がつくまい。これでは井戸というよりも、盥《たらい》の底に、洗足《すすぎ》の水が捨て残っているようなもので、はいっても裾をぬらすに足らぬほどだ。
「おい」
井戸の底から里好が呼ぶ。お蔦も思い切って里好をまねて、井戸の内側へすべり込んだ。ぬるぬる[#「ぬるぬる」に傍点]とした苔《こけ》の触感とともに、腐ったような水の香が、ぷん[#「ぷん」に傍点]と鼻をつく。井戸の幅が狭いので、お蔦は手足を突っ張るようにして、そろそろとおりて行った。里好の両手がお蔦を抱いて、そっとその浅い水の中に立たせる。
「さあ、これからだ」
里好はこういって、ひときわ黒く苔のむしている眼の前の石を、ちょうど戸でもあけるように、力を入れて右へ引くと、――。
と、どうだ!
そこに人間一人楽に出はいりできる、黒い穴が口をあけたではないか。
秘密の集会所。姿見の井戸への通路である。
里好とお蔦は、手を取り合ってそこからはいり込んだ。真っ暗で何も見えはしないが、石室《いしむろ》のような狭い部屋であるらしいことと、足音のしないように、底に藁屑《わらくず》が厚く敷き詰めてあることだけはお蔦にもよくわかった。里好はお蔦を、ちょっと手で制するようにしておいて、それから闇黒《やみ》の奥をうかがって低い声で案内を求めた。
「お頼み申します――お頼み申します。駈け込みでございます」
すると奥のほうから、藁を踏む足音《おと》がかすかに近づいて来て、闇黒のなかでも一段と濃い人影が、少し離れて立った。
見ず聞かず――どこの何者かわかる機会があっても、わかろうとしてはいけないのが、この姿見井戸の定法だから、とみにはそばに近寄ろうとはせずに、これだけの秘密を知ってすでにここまではいって来た以上は、一味の者として、何の怪しむ必要はないと認めているもののごとく、その影が静かにいった。
「今、袋を持って来てやるから、待っておれ。何人だ? ああ二人だな」
影はそのまま引っ込んで行って、まもなく、その方角から、どさりどさり[#「どさりどさり」に傍点]と、重い布地《きれじ》が飛んで来て、二人の顔やからだを打った。お蔦は蝙蝠《こうもり》かと思って、ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたが、里好は慣れたもの、
「これ、これ!」
と喜びの声をもらして、そこらに落ち散った布を集めている。拾い上げてみると、黒い布を、ずんどう[#「ずんどう」に傍点]の袋に縫ったもので、頭から手足まですっかり包んで眼だけ出るようにできている。里好にいわれてそれを着けたお蔦は、何だか自分からこの世を離れて、全然別な世界へ来たような気がした。里好も、もう一塊の黒い袋と化している。二人は顧《かえり》み合って、袋の中でにっこり[#「にっこり」に傍点]した。
一つの袋が歩き出す。
他の袋がついて行く。
まるで、南海の怪鳥《けちょう》が行列を作っているようである。それはもうお蔦でもなければ、里好でもない。二人はただ、うばたまの闇黒にうごめく烏羽玉の果《み》の一つ二つだ。
木の下道のような暗い細いところを、あれで二、三十歩も行ったであろうか。
「下りだ、気をつけなさい」
という里好の声で、お蔦が足をすべらせないように木で張った梯子段《はしごだん》をおり切ると、眼の前の二間ほどの所に、荒筵《あらむしろ》が二枚だらり[#「だらり」に傍点]と下がっていて、その目を通して、何やら黄色い光が、地獄の夢のように、ぼうっともれている。
「お仲間がたくさんいますよ」
里好の声は笑っていた。
どうも不思議な御縁だねえ
こうしてお蔦が井戸の底の生活にはいったのは、何日前のことであろうか。
夜も昼もないここでは、日のたつのは数えようもなかったが、三つの食事を一日としても、もうだいぶんの日数がたっていなければならない。そのあいだに何が起こり、どんな出来事が発生したか。
何事もなかった。
ただ、同じ扮装《いでたち》をした三百人近くの人数と
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