、閑山には無二の忠義者だ。その耳へ口を寄せて、閑山がささやく。
「あの鎧櫃をな、向島へひいて行ってくれ。具足が詰まっているから重いぞ」
「手車でようがしょう」
「御苦労だが頼む。晩には一升買おう」
支度に行こうとする久七を、閑山は急いで呼びとめた。
「ほほうっかり忘れよった。饗庭《あいば》様へこの花瓶《かびん》をお届けせにゃならぬ。口やかましいお方だ。またぽんぽん[#「ぽんぽん」に傍点]いいおるだろう。お前、すまんがな、どうせ少しのまわり道だ。往きに妻恋坂《つまごいざか》へ寄って、閑山からよろしく申しましたと口上を述べてこれを置いて、それから向島へ行ってくれ。わかったかな」
まもなく、とんだ具足を入れた鎧櫃と、ついでに、妻恋坂の殿様お買い上げの九谷《くたに》の花瓶を積んだ小手車が、久七の手で閑山の店から引き出された。帰途《かえり》は夜と覚悟してか、まのぬけた小田原提灯《おだわらちょうちん》が一つ梶棒《かじぼう》の先にぶら下がっていた。
上には上がある。これで見ると津賀閑山、いっぱしの腕《て》のきく小悪党らしい。
久七の車が店を離れてだんだん小さくなって行くのを、すこし隔たった連雀町の通りに立って見送っていたのは、浅草からつけて来た仲間奴だが、車の上の鎧櫃にめざす女《たま》がはいっていようなどとは、お釈迦《しゃか》さまでも気がつくまい――。
いつまで張り込むつもりか。
春永《はるなが》とはいえ、もう往来の土に冷たい影が細長く倒れて、駿河台《するがだい》の森の烏の群れがさわぎ出したのに男はまだそこらをぶら[#「ぶら」に傍点]ついている。
そいつあわからねえ話だな
あくる日の朝。
日本橋|浮世小路《うきよこうじ》。
出もどりの姉おこよにやらせている名物いろは寿司《ずし》、岡《おか》っ引きいろは屋《や》文次《ぶんじ》が住まいである。
あるかなしかのさわやかな風が伊呂波《いろは》ずしと染め抜いた柿色の暖簾《のれん》をなぶって、どうやら暑くさえなりそうな陽のにおい。
朝湯から帰って来た文次、まだ四十にはまもあろう、素袷《すあわせ》を引っ掛けてこうやっているところ、憎いほどいなせ[#「いなせ」に傍点]な男だ。
長火鉢《ながひばち》のまえにどっかりあぐらをかいて、鰹《かつお》のはしりか何かでのんびり[#「のんびり」に傍点]と盃《さかずき》を手にしている。
朝から酒というのもちと変だが、これにはわけがある。
ほかでもない。
公儀のことは文次などにはよくわからないが、彦根《ひこね》様が大老職について、以前《まえ》から持ち越していた異国との談判、つづいて何だかんだと鼎《かなえ》のわくような世のさま。今にも黒船が品川の海へ攻め寄せて来て御本丸《ごほんまる》へ大砲をぶっ放すことの、いや、それより先に江戸に大戦《おおいくさ》がおっぱじまるのと、寄るとさわると物騒な噂《うわさ》ばかり。
そういえば、毎年おりるお堀の鴨《かも》が今年は一羽も浮かんでいない、これは公方《くぼう》さまの凶事をしらせるものだ。なお、夕方|永代《えいたい》の橋から見ると羽田《はねだ》の沖に血の色の入道雲が立っているがあれこそ国難の兆《しるし》であろう――流言|蜚語《ひご》、豆州《ずしゅう》神奈川あたりの人は江戸へ逃げ込むし、気の早い江戸の町人は在方を指して、家財道具を載《つ》んだ荷車が毎日のように日光街道、甲州街道をごろごろ、ごろごろ、いやもう、早鐘一つで誰も彼も飛び出す気だ。
恐怖の都。
国を挙げて騒擾《そうじょう》の巷《ちまた》。
この間、幕府が一番手を焼いたのは、お公卿《くげ》さまと学者と倒幕浪士との握手であった。
そのころ、毎夜|戌亥《いぬい》の空に一つの箒星《ほうきぼし》が現われて、最初は長さ三、四尺で光りも弱いが、夜のふけるにつれて大きくなって行く。
どこかに天下をねらう者が潜んでいる。
人々はこう噂して不安を増した。
そこで幕府は、大小目付三奉行の五手|掛《かか》りのお役かえを断行して、野火をあおるように一挙に安政の大獄に取りかかる。するとここに不思議なことには、井伊掃部頭《いいかもんのかみ》さまの信任厚い町奉行、池田|播磨守《はりまのかみ》の用人や、加役の組下、三|廻《めぐ》りの旦那方などの下を働く者のあいだに、実に奇妙な変死が絶えない。
刀で命を落とすのなら、当時のこと、珍しくはないが、これは、花が咲いて死ぬのだから、風流どころか薄気味が悪い。
江戸じゅうの手先が、猿眼をして探索にかかったが、毎日のようにお役向きが急死するばかりで、何が何やら、さっぱり眼鼻がつかないのだ。
花が咲いて死ぬとは?
それはこうだ。
出先からかえってくると、にわかに大熱が出て息を引き取る。遺骸《いがい》のどこかに、必ず紅《あ
前へ
次へ
全60ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング