「丹三よ、かかれ! 斬れ、斬れ! 斬っちめえ!」
 月は暗い。雲があるのだ。

   用というのは首がほしい

 その薄い光で見ると、ほろ酔いきげんの遊佐銀二郎、謡曲《うたい》か何か低声にうなりながら、妻恋坂から立売坂《たちうりざか》へさしかかってゆく。あとから守人が、これはかげを選んでつけているのだ。御免安兵衛は、この二つの人影へ、焼けつくような視線をすえて、陶山流でいう忍びの歩行稲妻踏み、すなわち、路の端から端へと横走りながら、しばしとまってまた斜めに切り進んで行く。
 安兵衛、尻をからげて、両手を膝に、やみを通して見極めをつけておいては、つつつと小走り、まるで鼬《いたち》だ。これではよもやみつかるまい。
「げっ! 影屋敷だぜこれあ。影屋敷へ御帰館と来やがらあ。それあいいが、あの二番目の侍だ。あいつがこう乙な声を出して、率爾《そつじ》ながらしばしお待ちを願う、お呼びとめありしはそれがしか――なんてことになると面白えんだがなあ。仇敵討《かたきう》ちだぜ、きっと」
 口のなかでぶつぶついっては、お手のものの稲妻踏みだ。のんきな野郎。
 月光が水のようだ。雲は切れたらしい。
 立売坂の中腹、ちょうど饗庭の影屋敷のすこし手前に当たって、左手《ゆんで》に草原を控えたちょっとした平地がある。遊佐銀二郎がその地点へ踏み入れたときだった。かれはうしろに当たって、低い太い声をはっきりと聞いた。
「遊佐氏、遊佐氏ではないか」
 自分の名前というものは争われない。聞かぬふりをしようとしても、足のほうが正直だ。自然にその場へとまってしまった。勢い、振り向かざるを得ない。
「誰だ?」
「拙者だ、守人でござる」
「守人? ふうむ、あの篁か」
「さよう」と黒い影が近づいてくる。「いかにもその篁守人。お久しぶりでござる」
「や! これは篁、珍しいところで――どうじゃなその後は! 達者で重畳だな」
「――」
「おい、おぬし篁か。篁じゃな」
「遊佐、捜したぞ」
「何? わしをさがしたと? 要でもあるのか」
「おう、ある。大いにあるのだ」
「何だ、いえ」
「いうことではない。おぬしごとき犬に、もう何を申し聞けることはないのだ」
 遊佐銀二郎、一歩下がって羽織の紐《ひも》に手をかけた。足《そく》のひらきがもう居合腰にはまっている。
「では、用というのは、何だ?」
「首だ!」
「首? この、遊佐銀二郎の首か」
「いかにも!」
「わっはっはっはは」笑い出した銀二郎である。「でかしたぞ。首とはよかった。うむ、持って行け、といいたいが、こんな古い薄ぎたない首でも、おれにはまだすこうし要があるでな」
「未練なことを申すな。そっちに、拙者のみといわず、同藩の者には首をねらわれる覚えがあろう?」
「これこれ、篁、そ、そんな堅苦しいことをいうものではない。おぬしはまだ若い。若いから一本調子だ。だがな篁、世の中はそうむき[#「むき」に傍点]になってもいかんものだぞ。
 なるほど、書を読み眼を開いて大勢を観ずる者、誰しも一意向、一家言を有するのは当然だ。それによって討幕もよい。勤王《きんのう》も面白かろう。佐幕もまた妙じゃ。が、しかしなあ、世のことおおむね理屈《りくつ》ではない。まわりまわって帰するところ、要するにこの身一個のやりくりだ。な、篁、そうではないか」
「えいっ! この期《ご》に及んで何を――」
「まあ、聞け。斬るのはいつでも斬れる。それよりも心の持ちようだ。思い詰めれば何事も途《みち》のふさがるものだが、一転機に立って勘考方《かんがえかた》を変えてみれば、なんだつまらねえ、何もやきもき[#「やきもき」に傍点]することはない。他人《ひと》は他人、自分は自分だ――さ、こうなると、身辺洋々として春の海のごとし。なあ、要するに融通一つだよ。当節の世の中だな。武士といえども御他聞にもれずさ。利口になれ、利口に」
「ちっ! 変心に理を構える見苦しさ。遊佐!」守人の声は友情に泣いていた。「遊佐! お、おぬし、魔がさしたか。剣をとっては里見先生の道場に、そ、その人ありと知られたおぬしではないか――」
「いうな。昔のことだ」
「また、相良《さがら》先生の教えをも朝夕親しく受けた身ではないか。一時の夢か。ゆ、夢ならさめてくれ。これ、遊佐、守人が拝むぞ」
「はっはっは、玄鶯院は国賊じゃよ。西方の魔術に魅入《みい》られたあれは逆徒じゃ」
「なな、何だと?」
「篁、おれは酔うとる。何事も酒がいわせることと思ってくれ。もとの同志の方々へ、よろしくと、これだけは頼む。どりゃ、失敬しようか。夜風は寒いな――篁さらばじゃ」
「ま、待てっ! 待たぬか」
「黄口の乳児、談《かた》るに足らぬよ」
「その乳児の一刀、受け得るものなら受けてみよ!」
 叫んだ守人、その前にすでに、帰雁は銀二郎を望んでおどり出てい
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