めて空中を吹かれて歩くのである。それほどだから、茎《くき》をつまんで人のからだに近づけてやれば、必ずしも、根を押しつけなくても、自分から吸い着いてゆく。そうして一度人の皮膚に根をおろすが早いか、すぐに血を吸い上げて花が咲き出す。
 同時に、その根から猛毒を人体へ吐き出して、それを受けた人は、ただちに高熱を発し、夢をみるように、死んでしまうとのことで、玄鶯院はこの嗜人草の苗を数十本もらい受け、そのとき栽培法をもくわしくきいておいたのだった。
 まもなくのちに幕府の役人を殺しまわり、御用の者を当惑させた嗜人草はこうして玄鶯院の手を経て、本朝へ持ち込まれたのである。白い細い茎に、蒼白い葉の二、三枚と網のような青い根、それに、毒を帯びてくると紅い小さな蕾を持つ、ちょっと見たところ蓴菜《じゅんさい》のような植物であった。
 が、玄鶯院にしたところで、何もはじめから幕吏暗殺の目的をもってこの嗜人草を請い受けたわけではない。やむにやまれぬ研究慾を満たすため、いわば材料として分けてもらったのであった。
 だから江戸へ持ち帰ったのちも、危険だというのでそこらへ試植することをせず、わざわざ人眼をさけるために下男のへらへら[#「へらへら」に傍点]平兵衛と二人きりで天井を二重にしてそこへ砂を運んで苗をおろし、ひそかに研究の資に供していただけなのである。
 ところが、動こうとする世の中を、古い力で押し止めようとする幕府の仕打ちが玄鶯院の気に入らなかった。長らく自分たちを圧迫して来た徳川家である。ことに、掃部頭直弼が大老職についてからというものは、暴圧に暴圧を重ね、諸国の志士を眼の敵《かたき》にして、ろくに罪の有無もしらべずに酷に失した罰を加えるので、玄鶯院の身内に油然と復讐《ふくしゅう》の血が沸き起こった。そこへ現われたのが篁守人《たかむらもりと》である。
 守人の父水戸の篁大学とは同学のあいだだったので、大学が何者かの手にかかり非業の最期を遂げ、その子の守人が父の仇敵《きゅうてき》をねらって江戸へ出て来たときから、玄鶯院はわが子のように守人の世話をして来たのだが、こういう関係から玄鶯院もいつしか水藩の志士と往来するようになり、大老要撃の密計にも、一味にとって最大の智恵《ちえ》ぶくろとして参与することとなった。
 一方、江戸じゅうに、からだに花が咲いて死ぬ不思議な暗殺が行なわれ出したのもこのころからのことである。いうまでもなく、守人が玄鶯院の嗜人草を持ち歩いて、これと思う者へ附着せしめていたのだ。これがいわゆる死に花の恐怖である。
 で、守人が夜歩きをするのはそのためだった。そして、深夜または夜ふけに帰ってきて、守人が玄鶯院に指を出して見せるのは、花をつけて来た人数を示すものだった。
 ところへ、不意にあの税所邦之助の来襲である、うまく一同を二重天井へ隠して事なきを得たものの、どうしてもれたのか守人は不思議でならなかった。
 誰か内通でも――?
 そう言えば思い当たるのが遊佐銀二郎である。
 あれからこっち、銀二郎は姿を見せないのだ。
 守人がまだ故郷の水戸で里見無念斎《さとみむねんさい》の道場に通っていたころ、師範代をつとめていたのが遊佐銀二郎、それから江戸の両国で銀二郎は人魚の女のお蔦と同棲《どうせい》していたが、そこで守人はお蔦を見て、二人は、恋し恋される仲となったのだったが――。
 あのお蔦はどうしたろう?
 いや、思ってはならぬ。
 が、銀二郎の行動こそは奇怪である。
 しばらく行方《ゆくえ》をくらましていたと思ったら、はじめて先夜の会合に顔を出して、それ以来またばったりと消息を絶った。
 銀二郎を探し出してきくべきことをきき、そのうえで、次第によっては帰雁に物をいわせてやろう――と、守人は、夜ごとに方来居を立ちいでていたのだが、まもなく数寄屋橋ぎわの闇黒《やみ》で会ったのが、先夜の同心税所邦之助だったから、守人はさっそく携えている革袋から嗜人草を一本取り出して――。
 その晩、方来居に帰って来て、守人は人さし指を一本出して見せた。
「誰じゃったな?」玄鶯院がきいた。
「税所でござる。あの同心の」
「ほほう、でかしたのう」こういって玄鶯院はにっこりしていた。
 こちらはいろは屋文次と御免安兵衛。
 今度こそはと眼ざして行った鳥が立ったあとで、三味線堀の家が留守なので、また手がかりを失った形で、
「親分、どうしたもんでしょうね」
「そうよな。ま、当分|日和見《ひよりみ》だ」
 いいながら、夜ふけて浮世小路のいろは寿司へ帰ってみると、いま屋根屋新道からお使いがあって、旦那があぶないとのこと。
 きいてみると、死に花らしいというから、文次と安、息せき切って八丁堀へかけつけた。来てみるともう医者が来ていて、すぐに草を抜いて、あとの毒血を吸い出し、全身
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