うせたのか。方来居の手入れに、蟻のはい出るすきまもないほど取り囲んでおいて、万遺漏《ばんいろう》なしと不意に侵入して家内を捜索すると、おどろいたことには家人のほかに客一人いずに、家の中はがらんどうで、家族は今の今まで眠っていたらしかった。
 しかし、今晩この庵《いおり》で水藩高橋一派の秘密会合があって首領高橋多一郎以下十五、六人の人間が集まることになっているのは、かれらの仲間の一人となって隠密の役をつとめている遊佐銀二郎の口から知れているし、のみならず、夕刻から方来居の近くに伏せておいた腹心の者どもからも、種々雑多な風体の輩《やから》が闇黒にまぎれて続々と草庵の裏木戸に吸い込まれたというしらせもあって踏み込んだことだから、よもや間違いとは思われない。
 広くもない家のことだ。他に隠れ場があろうとも見えないが、念のためと畳を上げ、壁をたたき、竈《かまど》の奥から雪隠《せっちん》の中までほとんど夜っぴてのぞきまわったが、猫の仔《こ》一匹出て来はしない。屋根から、床下も見落としはしなかった。
 これは税所邦之助が不思議に耐えなかったところだが、そうした家探《やさが》しの結果も無効に終わって、邦之助はその十五、六人集まっていた水戸藩の人々を一人も発見することができなかった。
 では、かれら志士はいったいどこに隠れたのか。
 答えは簡単である。
 家の中? もちろん家の中だ。
「屋根うら――も見落としはしなかった」
 と邦之助は考えているし、じっさい捕手《とりて》の四、五人が台所の梁《はり》の上から天井裏へはいりこんで、隅から隅まで見届けて異常なしと復命したくらいだから、まったく「見落とし」たわけではなかったが――いや、やっぱり見落としたのだ。
 というのが、天井裏は天井裏でも、その天井うらが二枚になっている。これが方来居のからくりであった。
 老主玄鶯院が無言で捕吏《ほり》をにらみつけながら新太郎を寝かしていた奥座敷に、上へついた違い棚がある。これが通路だ。
 黒くなった銀紙の戸棚をあけると、手もとの右側の柱のかげに、一本の紐《ひも》が下がっている。これを引くのだ。
 これを引けば、ぐっと手ごたえがあって、戸棚の天井が一枚の板となって釣り橋のように口をあけるであろう。ひとりずつ静かに上がりこめばわけはない。
 上がり込んだ上は、下から見た天井と、上から見た天井とのあいだに、つまり二重に張った天井の中間がようように腹ばいにはえるくらいの空隙《すき》になっていて、それが家じゅうの天井をおおいつくしていた。
 この低い二重天井へはい上がって、一同鳴りをしずめていたのだから、税所邦之助の一行が捜し当て得なかったのもむりではない。やっと腹ばいになってはいれるくらいの高さだから、二重天井になっていても、気のつくほどではないのだ。これでまんまと捕方を煙《けむ》にまいたわけである。
 さて、この箱のような二重天井の一隅《いちぐう》に砂を敷き、藁で囲って、いつのころからか不思議な植物が栽培されていた。玄鶯院が呼んで「嗜人草《しじんそう》」といっているのがそれである。
 千代田城の伺候を辞してから、蘭医玄鶯院はしばらく曽遊《そゆう》の地長崎に再び自適の日を送ったことがある。そのとき、ある和蘭《オランダ》船のかぴたん[#「かぴたん」に傍点]から隅然手に入れたのがこの妖異きわまる嗜人草の苗であった。
 嗜人草は、南方の砂原|須原《スハラ》の内地に産する怖草《ふそう》の一種で、むかしはこれのために旅人が悩まされ、隊商のむれがたおれたものであるが、いまはだんだん少なくなって、それほどの害も及ぼさないが、それでも、南の国では名を聞いただけでも人を戦慄《せんりつ》させる植物であるとのことだった。
 ことにその苗は強く、何か月何年紙に包んでおいても死ぬということはない。そして、砂におろしたのちも、根が砂についてあるところまで成長するまでは無害だが、いったん成長しきって、といったところで元来小さな草だから五分くらいにしかならないのだが、蕾《つぼみ》を持ってくると[#「持ってくると」は底本では「持ってくるし」]、急に猛毒を含むようになる。
 それだけでは他の毒草のごとく、口中に入れたり触れたりしない限りまず心配はないわけだが、この嗜人草はその名のとおりに、毒を持つようになると人体に根をおろすことが大好きで、須原《スハラ》の砂漠《さばく》などでは、毒の蕾を持ったこの嗜人草が砂を離れ、群をなして風に乗って人血の香をさがして吹いてくるので、この毒草の風幕に包まれて、数百人から成る一隊商が全滅してしまうことも珍しくなかったというかぴたん[#「かぴたん」に傍点]の話だった。
 つまり、五分くらいの長さに伸びて蕾を持つようになれば、ちょっとした風にでも根が砂を離れて、ひとりで人体を求
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