らないことに力を入れていうな。が、しかし、その毒物、本朝の産ではあるまい」
「と手前ども一統も愚考致しておりまする」
「うむ。つぎに、烏羽玉組《うばたまぐみ》とやら申す斬《き》り取《と》り強盗の輩がいよいよ跳梁《ちょうりょう》しおるとのことだが、また、例のあの一派の浪人ばらの動静はどうじゃな」
「御前」
「何だ」
「それについて失礼ながらお耳を」邦之助はいっしょうけんめいだ。「お耳打ちをお許しくださいますよう」
「おお誰もおらん、そこでいえ」
「なれど、念には念を、とか申しまするで」
「さようか、では苦しゅうない。近う」
一世一代の勇気を出した邦之助、手を膝がしらに、腰をかがめて大まわりにまわって直弼の耳もと近くかしこまった。
咽喉仏《のどぼとけ》をがくがく[#「がくがく」に傍点]させて何かささやいている、細かくからだを振りながら聞いている平べったい彦根殿の顔が、見るみる驚愕《きょうがく》にゆがんだ。
「うむ、うむ――なに? そうか。ううむ、そち、それは真実《まこと》だろうな」
「まずこのねらいははずれますまいと存じます」
「ふうむ。彼奴《きやつ》か。あの男なら識っとる。それくらいのことはいかさまやりかねんやつじゃて」
「時に御前」
また邦之助の口が直弼の耳へ寄ると、しばらくして、
「うむそのことか」と聞いていた直さんが笑い出した。
「はっはっは、それなら先夜も志賀の金八が参って申しおったし、殿中においてもたびたびそれとなく忠告を受けおるが、直弼の眼中一身なしじゃ。かれら痩《やせ》浪士に何ができようぞ。あはははははは」
けれども、そのうちに邦之助がまたもや何事か耳へ吹き込むと、今度は、
「うむ」
といったきり――すると赤鬼といわれたその赫ら顔が一時に蒼ざめて大老掃部、畳をけるように突っ立った。
そしてどんどん[#「どんどん」に傍点]奥へはいってしまった。
邦之助が何をいったのかそれはわからないが、定めの半刻がたったので、世の格式を無視した会見はこれでおしまい。
済んでみるとあっけない。大老と一同心。もう一生涯に顔を見ることもかなうまい。年に一度会う七夕《たなばた》さまよりも情けないわけだ。
邦之助がぽかんとしていると、お小姓が菓子折と金一封を持って来て、御苦労さまと口上を述べている。
はっ[#「はっ」に傍点]と気がついた税所邦之助、いざ座を離れようとすると、足がしびれて袴の裾を踏んだ。
小姓がくす[#「くす」に傍点]っと笑って下を向いた。
邦之助の役宅は八丁堀屋根屋新道、帰路について、往来を歩きながらも、邦之助の頭は死に花の一件や烏羽玉組の跳躍[#「跳躍」はママ]、さては今いってきた大老様に対する水戸藩一派の策動などでいっぱいだった。考えれば考えるほど、このごろは人間がめだって不敵になったように思われる。
「しかし、これも世の中かな」
と思う。
が、得体の知れない草花を使う刺客やら、江戸中に出没する黒装束の強盗団、人もあろうに大老の首をねらう一味のことなどを、同心としての自分の立場からつぎからつぎと心に浮かべてゆくと、その一つにすらはっきりとした眼串《めぐし》が立っていないのが、役柄の手前はなはだふがいない気がする。穴あらばはいりたい。――ほとんどそんな悩みを覚えるのだった。
何も自分ひとりの手落ちというわけではなし、また仮に邦之助が単身ふんばってみたところで天下の大勢をどうすることもできないのだが、そこが苦労性の生まれつきでしようがない。まるで青菜に塩の体《てい》で、考え込みながらふらふら[#「ふらふら」に傍点]と数寄屋橋《すきやばし》御門から西紺屋《にしこんや》の河岸《かし》っ縁《ぷち》へ出た。
もう四刻《よつ》をまわっている。
暗いなかにどこか空あかりが漂っている美しい晩だ。
思案に沈んでいた税所邦之助、背後の供が何かいうのも聞こえなかったが、やにわに横合いから提灯を突きつけられてびっくりした。
「お! な、何者だ?」
急の光に眼がくらんで相手の顔は見えない。
と、すっと提灯が下がった。
「人違いでござる。粗忽、ごめんを――」
声に記憶《おぼえ》があった。とたんに、提灯の火が消えた。
「や!」
邦之助の手が、思わず刀の柄にかかる。ところが男は、慇懃《いんぎん》に小腰をかがめているようだ。
こやつ、見たことのある顔!
ああ、そうだ。確か名を篁守人――本所の玄鶯院宅方来居へ乗り込んだとき、玄関に寝ていたあの若い浪人者――。
怪しい! 寄って来たら真っ二つと! 邦之助が構えていると、守人は一歩下がって、
「失礼致しました」
立ち去るかと見えて、すたすた歩いて来る。
はっ[#「はっ」に傍点]として、さては、と邦之助が腰をひねったとき、守人は邦之助とすれすれにそのまま通り過ぎて
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