行った。
振り返って見ると、もういない。
「何じゃ、妙な奴じゃな」
邦之助、供をかえりみる。
「さようで――おおかた夜遊びの御勤番衆ででもございましょう」
見間違いということもある。守人ではなくて、たぶんそんなところだろう――ということになって、主従無言で歩き出した。
あそこから八丁堀までかなりある。で、帰り着いたころは夜もすっかりふけ渡っていた。
と、疲れ――もちろん邦之助はつかれていた。が、疲労以外のからだのぐあいが邦之助を襲い、その四股《てあし》をしばっているように感じられた。門から玄関へかかるのが邦之助にはいっしょうけんめいだった。式台へ上がろうとして、彼はくつ脱ぎの上へべたり[#「べたり」に傍点]とくずれてしまった。それでも夢中でうめくように何かいいつづけた。
「花――ことによると、死に花かもしれぬ! か、からだをあらためてみい。は、早く、早く!」
とせき立てながら、自分は泥沼へでも沈むように刻々気を失ってゆくらしかった。
迎えに出た妻と供の男が驚いて、邦之助のからだをしらべてみた。
と、長さ五分に足らぬ小さな草が、邦之助の首筋に吸い附いて、皮の下に、青い細い根を網のように張っているのを発見した。白い茎《くき》の中に一すじ赤く血を吸い上げているのが見える。その血を受けて、毒々しい真紅《まっか》な花が今や咲きかけているのだ!
これぞ話に聞いた死に花である。
大変! 一刻も早く!
というので、供の男はそのまま近所の町医へ走り、ほかのひとりがいろは屋を呼びに日本橋浮世小路をさして駈け出した。
たびたび来てもくるたびにむだ
日本橋の浮世小路である。
出もどりの姉おこよが出しているいろは寿司の奥の一間。
暑くなりかけた陽ざしを避けて、文次と安兵衛が話している。文次は[#「文次は」は底本では「文次郎は」]いま、御用帳を読みおわったところらしい。膝に帳面が載っかっている。
「なあ安、そこでだ――」
と文次が安に鋭い一瞥《いちべつ》をくれた。
「へえ」
なぜか御免安はおどおどしている。
「お前がお蔦をつけたことを今までおれに隠していたかと思うと、おらあ正直いやな気がするぜ」
「へえ」
といったきり、すぐとごめんやすとやるわけにもゆかず、安兵衛ことごとく恐縮の態だ。
「耳にゃ痛かろうがいうだけあいうつもりだ」文次がつづける。「お前がお蔦を見かけて、あとをつけて、神田の連雀町でまかれたってこたあ俺にあちゃん[#「ちゃん」に傍点]とわかってる。安、なぜいままで黙ってた?」
「ごめんやす」
「ごめんやすじゃねえ」
「へえ」
「へえ[#「へえ」に傍点]じゃねえ。こうっ、安、われあ何だな俺を出し抜いて一人功名を立てようとしたな。どうだ。図星だろう?」
「と、とんでもない! そ、そんな――」
「なら、何だ? 何だよ? その理由《わけ》ってのをいってみな。え。おう聞こうじゃねえか」
「へえ。実は親分」と安は頭をかいて、「実あその、もうすこしはっきり[#「はっきり」に傍点]見当がついてから申し上げようと思っていましたんで……ついその、胸一つに畳んでおく、ってなことに。へへへへ、ごめんやす」
文次の眼がぎょろ[#「ぎょろ」に傍点]っと光った。
「嘘をつけ! てめえは何だろう、あのお蔦に惚れてやがって、それで、俺にこっそり女をつらめいて味なまねをしようとたくらんでいたんだろう? いうことを聞けあ眼をつぶって放してやるとか何とかぬかすつもりで」
「じょ、冗談じゃねえ!」
「そうよ冗談じゃねえぜ。それに安、お蔦あ桝目《ますめ》を打った小判で五百両も持ってるから、なあ手前の考えそうなこった」
「まあ、親分、何もそうぽんぽん――」
「ぽんぽんいいたくもなろうじゃねえか――それによ、お蔦がまだ両国で人魚に化けて小屋へ出ていたころから、てめえいやに熱心に通ったじゃあねえか」
「面目ねえ。ごめんやす。へへこのとおり――」
「ま、いいやな。だがなあ、安、てめえの情婦《いろ》のお蔦も、おれみてえな野暮天にかかっちゃあ災難よなあ。おらあこれから三味線堀へ出向いて、お蔦を挙げてくるつもりだ」
「えっ! すると何ですか。やつあ今三味線堀にいるんですかえ。へえっ! こりゃ驚いた」
「おどろき桃の木|山椒《さんしょ》の木だろう。しかもお蔦ばかりじゃねえ。お蔦といっしょにいる手枕舎里好とかいう狂歌の先生もしょっ[#「しょっ」に傍点]引いてくるんだ」
「狂歌の先生がどうかしましたかえ」
「なあに、そいつあ掏摸よ。おれあゆうべ神田の津賀閑山の店へ寄ってな、ちょうど脅迫《ゆすり》に来ていた女侍の話を聞いてしまった。
お蔦は鎧櫃にへえって閑山の店を出て、それから久七のまちげえであの空家へ届けられたんだが、そこから逃げて、今あ下谷の三味線堀の里好
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