いた。
 で、月の十日には南北両奉行附|与力同心《よりきどうしん》放火盗賊改方《ひつけとうぞくあらためかた》の役々などを一人ずつ私の格として邸に招じ、半刻ほど巷《ちまた》のほこりをかぐのが定例になっている。
 この前代未聞破天荒の無礼講制度を彦根様の御下問日と称してお召しに預かった者は羽振りがきくし、第一役離れの心配がなくなるから下吏《したやく》のあいだには大いに受けがよかったもの、今度こそは俺の番だろう――なんかとめいめいが内心ひそかに申し上ぐべき事柄などをえらそうに考えたりしていると、そいつが当たったりはずれたりする。
 そりゃそのわけだ。掃部頭十日の朝になると役人名簿を取り寄せて、眼をつぶって扇子《せんす》か何かでぐるぐるぐるとん[#「ぐるぐるぐるとん」に傍点]とでたらめに名を突いて、夕方その者を呼び出させたということだから。
 そこで今日の十日。
 お召しによって控えましたるは本八丁堀屋根屋新道隠密まわり同心税所邦之助、まだお眼通りにもならない前から、このとおり真赫《まっか》に鯱張《しゃちこば》ってござる。ふだん自家《うち》でいばっているだけ、こんなところは女房子供にゃ見せられない。
 大老が出て来たらああもいおう、こうも述べよう。こっちの才も見せてやろうと、邦之助しきりに胆田《たんでん》に力を入れている。
 と、しいっしっという警蹕《けいひつ》の声。
 襖の引き手にたれた紫の房が、一つ大きく揺れて、開くまももどかしそうに肥った小男がはいって来た。
 近江国《おうみのくに》犬上郡《いぬがみごうり》彦根藩三十五万石の城主、幕府の大老として今や飛ぶ鳥を落とす井伊掃部頭直弼だ。

   七夕《たなばた》さまより情けない

 彦根様の御下問日――。
 こうして、どうした風の吹きまわしか、一同心の身をもって大老にお目通りすることになった税所邦之助、相手はいまでこそ幕閣の司だが、もとは長いこと部屋住みの次男坊で、相当浮世を見て来た苦労人だとのことだから、一つ怯《お》めず臆せずすべてをぶちまけようとかたくなりながら考えている。
 申し上ぐべきことが山ほどあるのだ。
 それにしてもずいぶん待たせる。もうお出ましになってもよさそうなもの――と邦之助がちょっとからだを動かしかけたとき、さらりとあいだの襖が開いて、ふとった小男がはいって来た。
 近江国犬上郡彦根藩三十五万石の城主、幕府の大老として今や飛ぶ鳥を落とす井伊掃部頭直弼だ。
 大股《おおまた》に、といいたいが、小柄でせっかち[#「せっかち」に傍点]だからちょこちょこと出て来て、足で蒲団を直してちょこなんとすわった。
「よい、よい。往け、ゆけ。あっちへ、あっちへ、あっちへ往け」
 いらいらして御近習《ごきんじゅう》にいっている。
 脂肪肥《あぶらぶと》りのしたからだのうちに、四角なだだ[#「だだ」に傍点]っ広い顔が載っかって、細い眼がつり上がっている。あまりいい御面相ではない。
 家来が引っ込んで行くと、
「面《おもて》を上げい」
 というお声がかりだ。どことなくがさがさ[#「がさがさ」に傍点]して、構えていないだけに、邦之助なぞにも話しがしやすい。わりに気軽にことばが出て、すぐにこのころの江戸の民状へ話題が向いた。
 が、貫目《かんめ》というものは争われない。会ったらこうもいおう、あれをああ述べてこっちの才に驚かしてやろう、なんかと考えて来たことはすっかりどこかへ消し飛んでしまって、邦之助、きかれた答えを歯から先へ押し出すだけで精一杯だ。
「死に花とか申したな、皮膚《はだ》に根をおろして人を殺《あや》める花、あの件はどうなった? やはり刺客の業か」
 ずけずけと持ち出してくる。邦之助はまごついた。
「さように存ぜられまする。これにつきましては手前方出入りの下賤の者に申し付けまして、着々探索の歩を進めておりまするが、何を申しますにも、その植物なるものが――」
「うむ。その探索方に当たりおる者は何と申す?」
「は、いえ、お耳に入れる名もない下素《げす》な者にござります」
「たわけめ! 名のない者があるか」
「恐れ入りましてございます。いろは屋文次と申しまして、御用の走り使いを勤むる町人にござりまする」
「いろは屋文次! 侠気《おとこぎ》めいた殊勝な名じゃ。さだめてやりおることであろう。そちから厚くねぎらって取らせい」
「はっ。ありがたきしあわせに存じまする」
「うむ。で、下手人と申すか、つまりその、花を使う者だな。これという見込みでもついたか」
「それがでござります。まことに申しわけございませぬがその毒草」
「毒草?」
「は。毒草ということだけは判明致しましたが、それ以外はいっさい――」
「いまだもって密雲の底に包まれておるという仕儀か」
「おことばのとおりにございます」
「自慢にもな
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