に付くほどではないので誰が誰だかいっこうにしっぽをつかませない。
 そこへもって来て上司からは警戒を厳にするようにとの矢のようなお達しだ。いわれるまでもなく役儀の表、充分に監視したいとはあせるものの、さて相手を知らないのでは暗中の一人相撲、的なしに弓を射るようなもので、警戒しようにも、全然策の施し方がなく、これではてんで[#「てんで」に傍点]お話にならない。
 おまけに、坊間ひそかにもれ伝わる不穏の計画がある。
 係り役人が躍気になって、走りまわっても、得るところは雲のような臆測か、煙みたいな風聞ばかり、事実はおろかとんと方向がつかないのだから、一同奔命に疲れた形で、青息吐息、ほとほと困《こう》じ果てて[#「困じ果てて」は底本では「図じ果てて」]いたところへ――。
 昨朝、内部へ放ってある信ずべき密偵からの告知《しらせ》。
 本所割り下水、もと御典医の蘭学者|相良玄鶯院《さがらげんおういん》の隠宅方来居で、水藩高橋一派の会合があるという。しかも十五、六人は集まる予定だとあるから、隠密まわり同心税所邦之助、こおどりしてよろこんだのも道理だ。もちろん先方の議いまだ熟さず、確たる証拠を収めることはできなかろうが、十五、六人も顔をならべているとは首実験にこれ以上の好機はない。
 税所邦之助が夕刻から方来居の近く要所々々へ腹心の者を伏せて待っていると種々雑多な風体の輩《やから》が、闇黒《やみ》に紛れ、続々と草庵の裏木戸に吸い込まれたとの吉報。
 時分を計って、自身精鋭の組下手付を率い、ひしひしと方来居を押っ取り囲んだ。
 昨夜のことだ。
 よく蟻《あり》のはい出るすきまもないということをいうが、全くそのとおりの手配。
 万端遺漏なしと見て不意に家内を捜索すると――驚いたことには家人のほか客ひとりいない。土間をうずめていたはずの履物《はきもの》さえどこにも見当たらないのだ。
 乱打に応じて戸をあけたのは、年寄りの下僕だった。家の中は真っ暗で、上がり込んでみると、玄関とおぼしき一間に食客なる若い浪人が蒲団の上に端坐し、奥座敷には庵主玄鶯院が幼児に添寝していた。ただそれだけ。
 老僕を引きすえて糺問《きゅうもん》してみたが、寝ぼけているのか顛倒《てんとう》したのかいうことがさらに判然しない。
 広くもない家のこと。
 他に隠れ場があろうとも見えぬ。
 が、念のためと畳を上げ、壁をたたいて、竈《かまど》の奥から雪隠の中までほとんど夜っぴてのぞきまわったが、猫の子一匹出て来はしない。屋根裏、床下も見落としはしなかった。
 とど朝になって報いられたところは、何らの抵抗を示さない老主玄鶯院の無言の嘲笑と、それから捕方の意気の沮喪《そそう》のみという税所邦之助としてははなはだ面白からぬ結果であった。
 加うるに今朝はまた、幕府方秘密の刺客の一人が堀田原の馬場に死体となってころがっていたとのはなし。
 それに、近ごろことに頻々《ひんぴん》として起こる死に花の一件――人体に根を張って生命を奪う怪しい草花。
「いろは屋はいったい何をしているのだ」
 この場所柄を忘れて、独語《ひとりごと》が邦之助の口をもれる。
 待つ身はつらいというが、もう一刻にもなろうとするけれど、税所邦之助はその点ではちっともつらくなかった。それどころか今は緊張と動悸《どうき》とではち[#「はち」に傍点]切れそうで腋《わき》の下に汗をかいている。
 生まれて始めてすわった壮麗な座敷に、邦之助はひとり控えさせられているのだ。
 袴の両わきから手を入れて頭を下げたまま、上座には主待ち顔の大褥《おおしとね》、それに引き添って脇息《きょうそく》が置いてある。
 やがて、はでやかな衣類に胸高に帯を結んだ奥女中が、燭台を捧げてしとやかにはいって来た。白い顔が夢のように浮かんだと思うと、ゆらり[#「ゆらり」に傍点]と一揖《いちゆう》して出て行く。
 金泥と蒔絵《まきえ》に明るい灯が踊っている。
 八百八町の雑音もここまでは届かない。
 桜田御門外はさいかち[#「さいかち」に傍点]河岸《がし》、大老|井伊掃部頭《いいかもんのかみ》様お上屋敷の奥深い一間である。
 この直弼《なおすけ》という人は『作夢記事』などという本は「井伊掃部頭殿は無識にして強暴の人なり」とだいぶこっぴどくこきおろしているが、強暴というのはいってみれば闘志|熾烈《しれつ》の別名で、あくまでも我を貫こうとする見識は、往々にして無識にも見えようというものだ。剛腹で自主の念が強かったというが、これは何事も調べ上げ、きわめ尽くした事実の上に立っていたからこそで、そこで無識とののしられ強暴と折り紙を附けられたのであろう。
 とにかく普通一般の殿様が下情に通じようなどという道楽気分からではなしに、井伊直弼は政務の一端としてよく市井の音に耳を傾けて
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