屋敷の鎧櫃の底で拾った小判を、神田の昌平橋ですり取られたいろは屋文次、掏摸を追って三味線堀までくると、今まで眼の先を走っていた盲目縞長袢纒に首に豆絞りを結んだ当の男が、ふっ[#「ふっ」に傍点]と見えなくなった。
 おや! 立ちどまると、めっかち長屋の前だ。たった今人を呑んだらしい格子戸が、さあらぬ態にしまってる。
「ふうむ。鼠《ねづみ》の穴はこれだな」
 眼をとめた文次、二、三軒行き過ぎると井戸があって、山の神がひとり、何かせっせ[#「せっせ」に傍点]と洗濯をしている。文次は丁寧《ていねい》に腰をかがめた。
「ちょいとうかがいますが、この三軒目はどなたのお住まいで?」
「三軒目かえ」おかみは振り返りもしない。「里好さんてってね。狂歌とかなんとかやる人だとさ」
「へえい! 狂歌師の里好さん――?」
「ああ。手枕舎っていうんだよ」
 手枕舎里好――聞いたことのねえ名だ。いずれ一皮むけばれっき[#「れっき」に傍点]とした御仁には相違なかろうが、それにしても化けたもんだ。世の中は手枕で渡るのが利口とは、なるほどこれあ御託宣だわえ――文次はちょっと吹き出したかったが、しかし考えてみると、たといはずみにもせよ、浮世小路の親分として人に知られた文次の懐中物を抜くんだから、この里好宗匠、よほどの腕ききとみえる。
 ことにあの小判、あれはこのさい、文次にとっては何者にも代えがたい手がかりだ――と思うと、文次も笑っている場合ではない。すっ[#「すっ」に傍点]とお神のそばへ寄って行って、
「おう、出入口はあの一つか」
 と、急に変わったこの番頭ふうの男の調子に、おかみは眼をまるくしてどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]していた。
 家の中では里好と女がてんてこまい[#「てんてこまい」に傍点]を演じている。
 今朝がたあんなにめかして出て行った里好が、いま駈け込んで来たのを見ると、なんのためにどこで着かえたものか、松坂木綿《まつざかもめん》のよれよれ[#「よれよれ」に傍点]になったやつへ煮しめたような豆しぼりというやくざ[#「やくざ」に傍点]な風体《なり》をしているのだから、女が面くらったのもあたりまえで、立て膝のまま、
「あ! お前さん!」
 ぽかんとして見あげる顔の上へ、里好は大あわてにあわてて、手早く脱ぎ捨てた長袢纒をふわりと掛けてしまった。
「あれさ。何をするの」
 女は着物の下でもがいたが、里好はそれどころじゃない。顔色を変えて騒いでいる。
「いや、勘弁々々、すまねえが、そいつにこの三尺と手ぬぐい、丸めて押入れへ押し込んでください。わたしは病人だ」
 いいながら、はや蒲団を引き出して敷きかける。女はびっくりして立ち上がった。
「あの、どこか、お加減でも――」
「なに、あとでわかる。ただね、わしは病人なのだ。いいかえ、病人だ、病人だ」と頭からすっぽり[#「すっぽり」に傍点]蒲団をかむって、
「後月《あとげつ》から腰が立たねえで寝ているというこころ。誰が来ても会わねえぜ。あんたは女房の役、な、看病やつれを見せてやんな。さ、今にも来る。頼みましたよ」
 一息にしゃべって黙りこむ、やがて、低くかすかにうめく声――どうもお手に入ったものだ。
 はっ[#「はっ」に傍点]とした女。
 もしかするとこの人はお役人にでもつけられたのじゃあないかしら?
 気がつくと他人事《ひとごと》ではない。高麗《こま》ねずみのようにきりきり[#「きりきり」に傍点]舞いをして、薬罐《やかん》、水差し、湯呑みなど病床の小道具一式を枕もとへ運んだのちそこらの物を押し入れへ投げ込んで、まずこれでよし――さあいつでも来るがいいよと女が長火鉢の前へ横ずわりにくずれたとき、がらり格子があいて、
「ごめんなさい」
 いろは屋文次だ。
「はい、どなた?」
 と女はゆったりした声、長煙管《ながぎせる》のけむりをぽっかりと吹いている。
「あの、里好先生のお宅はこちらでしょうか」
「はあ、さようでございます。どちら様から?」
 鷹揚《おうよう》に首をまわした女、土間の文次とぱったり顔が合った。とたんに「や! この女は!」という色が文次の表情《かお》にゆらいだが、たちまち追従《ついしょう》笑いとともに、文次は米つき飛蝗《ばった》のように二、三度首を縮めておじぎをした。
「いますかえ、これ?」
 となれなれしくおや指を出して見せる。
「はあいるにはいますが――」女は迷った。
 この人はだいぶ親しい仲とみえる。
 上げても差しつかえないんだよ、きっと。
 が、「誰が来ても」といった里好のことばを思い出すと、女はぎくり[#「ぎくり」に傍点]として文次へ向き直った。「いるにはいますが」と、にっこり[#「にっこり」に傍点]して、「ご存じのとおり一月ほどからだを悪くして寝たきりなんでござんすよ」
「だが、いまそこか
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