。もうどうしても人を信じられない気もちになっていた。
 昨夜《ゆうべ》助けられた男に伴なわれて来て、女はここに泊まったのである。
 古びてもいるし、狭いも狭いが、なんという取り散らした部屋の中。
 皿小鉢《さらこばち》が衣類や襦袢《じゅばん》と同居して、徳利《とくり》のそばには足袋《たび》がころがり、五郎八|茶碗《ぢゃわん》に火吹き竹が載っかっているかと思うと、はいふきに渋団扇《しぶうちわ》がささっている騒ぎ。おまけにほこりで真っ白だ。
 男やもめに蛆《うじ》がわく。
 家具といっては、洪水《おおみず》に流れ寄ったような長火鉢が一個あるきり、壁のすきまから月が拝めそうな風流ぶり。
 見ると、その長火鉢の向こう側に座蒲団が二つならべて、小掻巻《こかいまき》が丸めてある。
 ははあ、里好宗匠、ゆうべは天にも地にもたった一組の夜着を女にとられて、ここの配所に御寝なすったものとみえる。
 なかなかの堅人《かたじん》、これなら当分いっしょにいても、さして間違いはあるまい。
 と思うと、女は急に気やすになった。髪をかき上げて台所の障子をあけた。
「おはようございます」
「や、これは嫁御寮、お眼ざめかな、わっはっはっは、いや、おはよう」
 あから顔の四十男、でっぷりふとって、狂歌師よりも質屋のおやじという人がら。不器用な手つきでお米をといでいる。
「どうかね、よくお休みになれたかな」
「はい。どうも昨晩はいろいろとお世話様になりまして、ありがとうございます。おかげ様で――」
「おっと! 礼には及びません。わしもまだ御挨拶《ごあいさつ》をしない。ま、そんなかたっ苦しいことは抜きにしましょうや。さ、顔を洗ったり、顔を洗ったり。井戸かね。長屋の裏にある――お! お前さん、気にさわったらごめんなさいよ。何かいわくがありそうだからきくんだが、戸外《そと》へ出てもいいからだかね? なんならわしがくんで来てやるが」
「はあ、いえ、あの、かまいません」
 渡る世間に鬼ばかりもいない。
 何から何まで届く人、伯父さんとでも呼びかけたいような――。
 釣瓶《つるべ》うつしに冷たい水で顔をしめしながら、女は、幾年にもなくふ[#「ふ」に傍点]と甘い幼《おさな》ごころに返った。
 誰かの胸に泣いても泣いても泣き足りないのはこのはかなさ。
 思えば、津賀閑山の店からこの家へ来るまで、なんというめまぐるしい運命の手にもてあそばれたことであろう。
 が、ここが当座のねぐらという気がする。
 袖すりあうも他生の縁、この人とならば膝をつき合わしていても安心だ。
 ――添われまいとて苦にせまいもの、命ありゃこそ花も咲く。
 どうせ恋しいお方と住めない以上は、広い浮世に宿がないのも同然、誰と暮らそうとおんなじことで、大事なものだけは大事にして、まあ、しばらくここに腰をすえましょう。
 井戸をのぞいて水鏡。
 気のせいか、一昼夜の心労にげっそり[#「げっそり」に傍点]痩せて見える。
 女はさびしくほほえんで空を見上げた。
 からりと晴れ渡った初夏の朝。
 松平|下総守《しもうさのかみ》様の高塀《たかべい》が三味線堀のさざなみに揺れて、夜露に翼を光らせたぬれ燕が、つうっ、ついと白い腹をひらめかせている。
 女が家へはいると、里好先生の心づくしの、貧しい朝飯が待っていた。
 こう差し向かいで猫板の上を突ついているのだが、里好師がすっかり解脱《げだつ》しているだけに、双方すこしも艶《つや》っぽい気は起こらない。
 それどころか、熱い御飯に情けを感じて、女はともすればほろり[#「ほろり」に傍点]と来そう。

 やがて番茶をすすりながら、そそくさと楊枝《ようじ》を使って、里好がちょっと改まった。
「昨夜《ゆうべ》はひどく疲れていなすったようだから、そのまま寝かして進ぜたが、お前さんはどこの人かね?」
 よくきかれる問いである。女はさっそく用意の嘘《うそ》を出した。
「はあ。浅草のお福の茶屋、うれし野のおきんと申す者でございます」
 御免安のことばがこのさい大いに役に立ったわけ。
「へえい!」と里好はすっとんきょうな声を出した。「今評判の別嬪《べっぴん》嬉し野のおきんさんてなあお前さんのことかえ。いや、知らぬこととはいいながら数々の無礼、このとおりおわびを、はっはっは」
「あれ、おなぶりなすってはいやでございます。別嬪などと、ほほほほ」
「いや別嬪だ、誰が何といっても別嬪だ。ふうむ、してまた、その嬉し野のおきんさんがどうして昨夜のようなことに?」
「はい」と口ごもったが、一つ嘘をつけばあとはわけはない。
 神田の親類に用たしに行った帰り、途に迷って悪者に襲われているところへ、通りすがりのあなた様に助けられまして――と女は鎧櫃のことなぞおくびにも出さずに、すらすらといってのけた。そして、
「あの
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