夢のような夜気のこめる往来に立って、女はつ[#「つ」に傍点]と空を仰いだ。白じらと七つのお星さまが光っている。
「まあ、夜分はわりかた冷えるねえ」
早鐘のようにとき[#「とき」に傍点]めく胸から出る声にしては、あっぱれ落ち着いたものだ。ちょいと斜めに小襟を突き上げると、
はあくしゃん!
と色気抜きのくしゃみ。
が、そのときはもう荒くれ男がぐるり[#「ぐるり」に傍点]とあたりを取り巻いて、あとへも先へも動きがとれない。
女はすっかり度胸をきめた。
思い思いにはんぱな服装《なり》をした三下が、めいめい一かどの悪らしい顔つきで、雲助然と通せんぼうをしている。
「やいやい。阿魔《あま》っちょ、どこへ行くんでえ」
坊主頭に腹掛け一つという、山賊の走り使いみたいな玄妙不可思議なのが前へ出て来た。
「手前のからだに用があってな、ちょっくら引っかついで行くからそう思いねえ」
「なあ姐《ねえ》さん、悪いこたいわねえからおとなしく来なよ」
「こうっ! じたばたすれあおっかねえ目にあうばかりだぜ」
「なあに、おいらがおんぶしてってやらあ。ねえお神さん、お嬢さん、何だか知らねえが、あいよ、お頼みしますよ、なんていい声の一つも聞かせてくんねえ。うふっ」
「亀《かめ》っ! われの突ん出る幕じゃあねえ、[#「ねえ、」は底本では「ねえ 」]俺さまがお抱き申して往くんだ」
「うめえことをいうぜ。このふっくら[#「ふっくら」に傍点]したやつを一人で抱いてくなんて理窟《りくつ》はねえ」
「じゃあ、恨みっこねえように坊主持ちだ、坊主もちだ!」
「なにを! 坊主はひとりここにいらあ」
「わあい! わあい!」
「やっちゃえ、やっちゃえ!」
「手取り足とり別の間へ、と出かけべえ」
「おらあ脚を持つ」
「こん畜生! 脚はおいらが先約だ」
どういう量見か、みんな脚部《あし》のほうを受け持ちたがってがやがや[#「がやがや」に傍点]いっている。こうして、文字どおりかついでゆくつもりらしい。
いくら気丈夫でも、女一人に相手はあぶれ[#「あぶれ」に傍点]者が五、六人、どうしてかなう道理はない。
わざとおずおずとあとずさりした女、今にも泣き出しそうな顔で、
「あの、お前さんたち、感違えをしちゃあ困りますよ。あたしゃこの先のお店《たな》のもので、あれ、あそこへ良人《うちの》が迎えに出てるじゃありませんか」
向こうをのぞくようにしたが、もとより人っこひとりいはしない。
「ふむ。いい土性っ骨だぜ」妙に感心して坊主頭を振り立てた奴、「だがね、その手は桑名《くわな》の焼き蛤《はまぐり》だ。なあ、お前《めえ》が今しがたあそこのお邸を抜けて来たてえこたあこちとら[#「こちとら」に傍点]百も、承知なんだ」
女はしゃがんで、はだしの足を隠している。
「四の五のいわずにお供させてもらいてえな」
「えこう、殿様あお待ちかねだぜ」
「じゃあ何かえ」と急に歯切れがよくなった女、そっ[#「そっ」に傍点]と土をつかみながら「お前たちは、あの吃りのお侍さんに頼まれて、わたしを連れもどしに来てくれたとおいいかえ。そうかい、それは御苦労だったねえ」
と、いい終わるが早いか、女の手がすっ[#「すっ」に傍点]と上がって、ぱさっ[#「ぱさっ」に傍点]――物のみごとに眼つぶしをくらった坊主頭、だつ[#「だつ」に傍点]っととび下がって、
「わあっ!」
顔を押えた。女が土をぶつけたのだ。
同時に、二、三人を左右へ投げ飛ばして、女はすきをねらってかけ出した。
口々にののしりさわいで追って来る。
足弱のところ、勝手の知れない町なみだ、とても逃げおおせるわけはない。
「ひーとーごーろーしいーっ!」
とっさの機転に叫んではみたものの、物騒な真夜中のことだから、たとえ聞きつけても雨戸一枚あける人はない。そのうちに、ゆるんでいた帯がずるずると解けて蛇のように地面をひきずる。
そのままで女は走った。
走りながら帯をたぐろうとすると、どしん[#「どしん」に傍点]とからだがうしろへ引かれたように感じて、追っ手の一人が帯の端を踏んだ。
ええ面倒な!
くるくるとまわして帯を残して、また一走りと踏み出したが、押えた前のあぶないのに気がつくと、女はぺたり[#「ぺたり」に傍点]とその場にすわってしまった。
そうして追っ手が駈け寄ったときには、女は蝦《えび》のように、大地にごろりと寝そべっていた。
自棄《やけ》のやん八、どうなとなれ。
女の姿がそういっていた。
くくりのない着物から土の上に蒼白《あおじろ》い膚がこぼれているぐあい、凄艶《せいえん》すぎて妖異な情景。
「洒落《しゃれ》たまねをしやあがって――」
「太え女《あま》だ」
「白え歯を見せるから悪いんだ」
なに、たいして白い歯でもない。真っ黄色な乱杙歯《
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