早いのも確かに一得。守人をねらう黒法師の群れを見失った安は、今ごろは吉原《なか》へでもしけ[#「しけ」に傍点]込んでどこかのちょんちょん[#「ちょんちょん」に傍点]格子で枕の番でもおおせつかっていることであろう。
 暴風雨をおかして帰り着いた篁守人。
 もうここは割り下水の方来居。
 相良玄鶯院が草庵だ。
 ぬれ鼠の守人が、そっ[#「そっ」に傍点]と裏口の腰高障子をあけると、乱雑に脱ぎ捨てたおびただしい高下駄で、土間は足の踏み場もない。
 奥の八畳に徹夜の寄り合いが開かれている。
 目をつぶって腕組みした白髪童顔の玄鶯院を中央《なか》に、十五、六の人影が、有明《ありあけ》行燈の灯をはさんで静まり返っていた。
 幕府が最も苦手とする水藩志士の面々である。
 筆初めに首領高橋多一郎、関鉄之助、森五六郎、広木松之助、鯉淵要人《こいぶちかなめ》、岡部三十郎、斎藤|監物《けんもつ》、佐野竹之助、蓮田《はすだ》市五郎、稲田重蔵、増子金八、大関和七郎、広岡|子之次郎《ねのじろう》、遊佐銀二郎、山口|辰之介《たつのすけ》、海後磋磯之助《かいごさきのすけ》――名を聞いただけでも恐ろしい面だましい。
 大関をはじめ神田お玉が池千葉周作先生の門弟が多いから、いずれも北辰《ほくしん》一刀流の使い手がそろっている。
 よくもこう網の目をくぐって集まったもの。二百石小姓佐野竹之助なぞは、あくまでさようしからばで四角張っているが、岡部の三十はぐっ[#「ぐっ」に傍点]とくだけて小意気な縞物《しまもの》、ちょっと口三味線《くちじゃみせん》で小唄《こうた》でもやりそう。おのおの器用に化けてはいるが、なかでも奇抜なのは森五六郎の乞食《こじき》姿だ。おんぼろ[#「おんぼろ」に傍点]を一着に及んで御丁寧に頭陀袋《ずだぶくろ》まで下げているところ、あんまり真に迫って、一同いささか恐縮の態。
 動かざること林のごとし。
 佐野の声が大きいので、一座がときどきはっ[#「はっ」に傍点]とするほか、斎藤監物なんかは、隅っこに片づけられて丸くなって眠っている無心な新太郎の足の指をいじっては、故郷《くに》に残して来たわが児《こ》のうえでも思うのだろう、かわいくてたまらなそうにひとりほほえんでいる――。
 高橋多一郎が、薩摩《さつま》の高崎猪太郎《たかさきいたろう》の手紙を読み上げているのだ。
「近年幕吏|妄動《もうどう》し、かつ君臣の名義大いに混乱致し、はなはだしきは徳川幕府あるを知りて、天皇のあるを知らずに至り候――」
 惻々《そくそく》として胸を打つ声。
 そこへ守人が帰って来たわけ。
 茶のしたくをしていたへらへら[#「へらへら」に傍点]平兵衛と二、三言話をしていると、物音を聞きつけて遊佐銀二郎が立ってきた。
 と、台所の軒下、滝《たき》と落ちる雨だれのなかを、黒い影がすうっ[#「すうっ」に傍点]と横ぎるのを守人は見た。さっ[#「さっ」に傍点]と戸をあけて――、
 かあっ、ぺっ!
 守人が唾《つば》を吐きかけると、影はころぶように生垣《いけがき》の闇黒に消えた。
「何でござるな?」
 銀二郎がきいた。守人はぴしゃりと戸を締めた。
「御用心! 手がまわったと見えまするぞ」
「何の」銀二郎は一笑に附した。「犬じゃ、犬じゃ。雨に迷うた宿なし犬じゃ。おそるることはあるまい」
「さよう」
 何ごころなく眼を返した守人は、銀二郎の顔が、不純な心配と恐怖にゆがんでいるのをみて取った。
 さては此奴《こやつ》め内通でも――?
 いやいや、 まさか!
「さよう」と守人がにっこり[#「にっこり」に傍点]して、「だがしかし、その犬も歩けば棒に当たるとか申しましてな」
 といった時、篠《しの》突く雨の音を消して、家の周囲《まわり》にどっ[#「どっ」に傍点]と人声が沸き立った。
「しらべの筋あって南町奉行隠密まわり同心|税所邦之助《ざいしょくにのすけ》出張致した。開門、かあいもうーん!」
 奥と台所で同時に燈火《ともし》を吹き消した。
 漆黒《うるし》の闇。

   やけのやん八どうなとなれ

 鎧櫃で、どこともなく変な旅をしたあの女。
 ようようのことで吃りの殿様と猫侍の屋敷をのがれ出て、だらだら坂をおりてほっ[#「ほっ」に傍点]と一息。
 まずよかった。
 ここもお江戸の町らしい。
 ――角の小店で途《みち》を聞いているところへ、背後《うしろ》で多勢の跫音がしたので、振り返ってみると、いま来た坂を五、六人の男がばらばらばら[#「ばらばらばら」に傍点]っと駈けおりてくる。
 追っ手だ!
 と知るや、女はきっとなった。
 同時に振りから腋《わき》の下へ手を差し入れて懐中《ふところ》の小判包みをしっかり押えて、しゃなり、しゃなりと歩き出した。
 うまくゆくかどうか、ま、一つとぼけてやれという気。
 で、
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