、安兵衛、恐縮して黙りこんだ。
 狭い土間、守人は気軽に、安とならんで腰をおろして、蒼白《あおじろ》くほほえんでいる。
 お愛想《あいそ》ぶりにちょっと行燈をかき立てて、注文の小皿《こざら》盛りと熱燗《あつかん》を守人の前へ置いてから、老爺はまた安へ向かって、
「向島はどこへ行きなすったい」
「六阿弥陀よ」
 と調子づいた安兵衛、
「ねえ旦那《だんな》」と今度は守人へ、「あっし[#「あっし」に傍点]ゃあどうしても旦那に聞いてもらいてえことがあるんだ。この雨の中をいってえどこへ行って来たとおぼしめす? 向島六阿弥陀! いや全くのはなしでさあ。まったくの話」
 くどいのは酔漢《よっぱらい》の癖。老爺ははらはら[#「はらはら」に傍点]している。
「そうか。それは気《き》の毒《どく》だったな」守人はくだけて出て、「貴様だいぶいける口と見える。まあ一杯やれ」
「へえ。ありがとうございます。どうも旦那を前にしていうのは気がさしやすが、お侍さんにしちゃさばけたお方で、お若えのにえれえ。見上げたもんだ」
「うむ。面白い奴だな。貴様|稼売《しょうばい》は何だ」
「何に見えやす?」
「当ててみいと申すか。そうよな、どうせろくなものではあるまい。まず博奕《ばくち》打ちかな」
「えっへっへ、お眼がお高い、へへへへへ」
 酒杯《さかずき》を中に笑い合っているところへ、
「ここだろう」
「ここだ、ここだ」
「ここへはいったらしいぞ」
 と表に当たって、にわかに人の立ち騒ぐ声。
 安兵衛はぽかんとして守人を見た。と、守人の手がそっ[#「そっ」に傍点]とそばの刀に伸びている。
 さては――と安が腰を浮かしたとき、戸外では、
「なに、ここではあるまい。もっと先へ走ったようだ」
「そうだ。先だ、先だ」
「それ行け」
 と口々に叫びかわして立ち去った模様。
 眼の前の侍は、しずかに盃《さかずき》を口へ運んでいる。
 その袖を見て、安兵衛、愕然《ぎょっ》とした。
 べっとり[#「べっとり」に傍点]と血糊がついていた。
 酔ってはいても、蛇の道は蛇。
「おい、爺さん、代はここへ置くよ」
 安は蒼白《まっさお》になってそそくさ[#「そそくさ」に傍点]と立ち上がった。
 変に思った守人、ちらと自分の袖を見てどきり[#「どきり」に傍点]としたが、ぐっと呑んでさあらぬ顔。
「行くのか」
「へえ」
「まだ雨が降っているぞ」
「よく――よく降りますね」
「うん。青い物が助かる」
「青い物が助かります。旦那、お先へごめんやす」
 裾をまくって頭からかぶった御免安、達磨《だるま》に足が生えたような恰好《かっこう》で、野田屋の店をとび出した。
 同時に、守人もたった。
 おっ取り刀である。
「老爺、今の男は定連か」
「いえ、初めてのお顔でございます」
「よし!」
 うなずくが早いか、ばらりとそこへ小銭をつかみ出して、物をもいわず守人は外へ出た。
 さっきの人数を呼び返す気であろう。暗黒をのぞきながら、安兵衛が駈けて行く。
「おのれっ! 見んでもいい物を見おって――いらぬ筋へ忠義立てする気だな。ひょっとすると不浄の小者であろうも知れぬ」
 ぷつり、帰雁の鯉口《こいぐち》をひろげて、ぴしゃぴしゃ――守人は飛泥《はね》を上げて追いすがる。
 雨脚が太くなった。

   犬もあるけば棒にあたる

 守人はあきらめた。
 泥濘《ぬかるみ》をとび越えて走って行く御免安兵衛の姿は、鳥羽絵《とばえ》の奴《やっこ》のような恰好に、両側の家をもれる灯のなかにおどったり消えたりして、見るみるうちに小さくなる。
 やがて、浅茅原《あさじがはら》の闇黒にのまれてしまった。
 あとには、夜の春雨が霏々《ひひ》としてむせび泣いて、九刻《ここのつ》であろう、雲の低い空に、鐘の音が吸われていった。
 ふ[#「ふ」に傍点]と気がつくと、帰雁の柄《つか》へかけた右手の甲に、夜目にも白い雨滴が流れて、さっきの騒ぎに傘を切られた篁守人、頭からびしょ[#「びしょ」に傍点]ぬれになって橋場の通り銭形《ぜにかた》のまえに立っている。
 ぱちんと鍔《つば》を落とすと、守人は、
「ちっ」と舌打ちをした。
「下郎め、この袖の血を見てとび出しおったが、追っ手の者に訴人致す気に相違ない。万一、不浄の小者ででもあってみれば、存分に顔を見られた以上、どうあっても生かしてはおけぬ奴――ううむ、これは惜しいものを取り逃がしたぞ。血しぶきついでに斬って捨てようと存じたに、いつのまにやら見えずになった。いま眼の前にちらつきおったかと思うと、もう半丁さきを駈けおる。いや、脚の早いやつだ。
 まま、おかげでおれも、いやな殺生《せっしょう》を一つせずに済んだというもの。また彼奴《きやつ》とても命拾い、こりゃいっそ[#「いっそ」に傍点]両得かもしれぬ」
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