はならぬ。
 動いてはならぬ。
 雨ではない。縁とおぼしき一方の締め切った板戸を、立ち木の枝がなでているのだ。
 古沼にでも近いか、織るような蛙《かわず》の声。
 いよいよもってお江戸を離れている。本所の割り下水と今の自分とのあいだには、何十里、何百里の山河があるのだ、と思うと、女の眼頭が自然《ひとりで》に熱くなって、どうすることもできない涙が一筋、ほろりと畳をぬらした。
 はだけた襟もとや四肢《てあし》には、春とはいえ、深夜の空気はあまりにも寒々しい。
 が、動いてはならぬ。
 動いてはならぬ。
 たとえこのまま死んでも、このお武家たちに生きているからだをさとらせてはならない。
 それまで妙に考え込んでいた吃りの主人と猫侍、女の身柄を[#「身柄を」は底本では「 柄を」]中に、どっちからともなくぽつりぽつりと話し出した。
「わ、わしに、こ、このような進物をするとは、つ、津賀閑山の気が知れぬ」
「もとより進物ではございますまい。やはりその、屋敷を取り違えて届けられた門亡者と存じまする」
「が、門亡者にしたところで、わしのもとへ送ろうとしたものではないか」
「なるほど。では、当初《はじめ》から何かの行きちがいでござりましょうな」
「こ、これをひいて参った下郎は、ほほ他に何か積んでおったか」
「その儀、手前いっこうに存じませぬ。ただ手前が門内へはいりましたゆえ、そっと玄関に出ておりますとわれんばかりに戸をたたきますので、こう内からあけてみましたところ――」
「うむ」
「せっせ[#「せっせ」に傍点]と鎧櫃をおろして、閑山から参りました。お受け取りください、とがなりおりますから、さようか、御苦労と手前が出ましてな、その者と二人でかつぎ入れましたうえ、時分を見て御前にお越しを願った次第、腑に落ちぬと申せば、第一にあの下郎が不審でござります」
「わしが参ったときは、そ、そちはこれを二階へ引き上げおった。それはよいが、か、閑山の下僕、と、戸を乱打致してがなり立てたと?」
「は。いささか酒気を帯びておりましたようす」
「なんじゃ。く、くく、食《くら》いよったか。はははは、そ、それで解《げ》せたぞ」
「と申しますと?」
「し、知れたこと、その者の間違いじゃ」
 その者のまちがい?
 というと、車をひいて来た閑山の飯たきが、誤って自分をここへ送り込んだのか。
 さては閑山爺さんは恨む筋で
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