ばくけん》、たちまちそれを、やんわり振りかぶった大上段の構えは――寂《せき》としてさながら夜の湖面。
 眼がすわって、眉が寄って、美しい顔が血にうえているではないか!
「ひゃあっ! 抜いたっ!」
 安はてんてこまいだ。そこを文次が、逃《おと》してやる気でとっさに突き飛ばしたから、安兵衛、一枚繰った縁の戸から都合よく階下《した》の庭へころげ落ちた。いや、何とも大変な騒ぎ。
 別人のような侍の爪先《つまさき》がさざなみを立てて畳の目を刻んで来る。
 たいした手きき、えらい隠し芸、細腕に似合わぬ太刀《たち》さばき、人は見かけによらねえものだ。
「町人、参るぞ!」
 刹那《せつな》、冷気が頬をかすめる。かいくぐった文次、縁側へ出た。追いすがる無反《むぞ》りの一刀、切っ先が点となって鶺鴒《せきれい》の尾みたいに震えながら、鋩子《ぼうし》は陽を受けて名鏡のようにぴかありぴかりと光る。
「こいつはほんとに斬る気だな」
 と覚悟した文次は、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と刀影が流れるのを機会《しお》に、手近の障子を蹴倒した。
 じゃりいん!
 障子の悲鳴を背後に聞いて、文次は外光のなかへおどり出た――。
 芝生《しばふ》に立つやいな、振り仰いで見ると、早くも今の雨戸は締まって心ありげに落花が打っているばかり、空家はやっぱりただの空家で、物音一つしない。
 戸外はのどかな春の真昼だ。
 小鳥の影が地をすべる。
 門まで来て、裏の饗庭の屋敷を望むと、依然として遠くに釘のような立ち姿、殿様の亮三郎がじい[#「じい」に傍点]っとこっちをみつめていた。
 何が何やら文次には考えがまとまらない。夢? 京の夢大阪の夢というが、すりゃこれがお江戸の夢だろうか。
 ――さて、鎧櫃はみつかったが、からでは閑山もほしがるまい。
 いや、それよりもこの貸家で、狂気めいた鋭刃《えいじん》をふるうあの男美人の正体は?
 文次は袂に手を入れて何かを握った。
 思案にふけりながら妻恋坂の通りへ出ると、はるか下で御免安がびっこを引いている。
「親分」と急に威勢のいい大声だ。「御無事で何より――へへへへ、どうも何ともはや――」
「安、歩けるか」
「え? へえ」
「向島の六阿弥陀道までのしてな、辻善六ってのを当たって来い辻善六だぞ」
 安兵衛、急に顔をしかめた。
「あ痛た、た、たっ! おう、足が痛え!」
「すまねえが、頼むぜ
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