で引いたような一抹《いちまつ》の雲が、南風《みなみ》を受けて、うごくともなく流れている。
今そこらをはきおわったところであろう。狭い庭の隅に、去年の落ち葉をあつめて小さな塵塚《ちりづか》ができている。
永日閑居とでも題したい、まことにのんびりした図。
ここ本所割り下水といえば小役人と浪人の巣だが、その石原新町お賄陸尺《まかないろくしゃく》のうら、と[#「と」に傍点]ある巷路《こうじ》の奥なるこの庵室は、老主玄鶯院の人柄をも見せて、おのずから浮世ばなれのした別天地をなしている。
白髪《しらが》を合総《がっそう》に取り上げた撫付《なでつ》け髷《まげ》、品も威もある風貌、いわば幾とせの霜を経た梅の古木のおもかげでこの玄鶯院と名乗る老翁《おやじ》、どうもただの隠者とは受け取れない。
遠くの物音に耳を傾けるように、たとえば世の中の動きを聞きとろうとするように、老人は態手にもたれて立っている。
近所の道場に、お面お小手と稽古の音がする。
雨のような日光――。
やがて老人はうしろを振り返って低声《こごえ》に呼んだ。
「守人《もりと》殿、守人殿」
「は、はい」家のなかから含み声の返事。
「お呼びになりましたか」
といったが、出ては来ない。
内と外とに静かなやりとりがつづく。
「どうじゃ、新太郎は眠っているかの」
「はい、さっきまでむつ[#「むつ」に傍点]かっておりましたが、今はよく眠っております」
「はははは、厄介坊主《やっかいぼうず》め、さすがの篁《たかむら》守人もそのあくたれにはほとほとてこずりおると見えるのう。はははははは」
老若二人の笑い声が、愉快そうに一つに合う。が、家の中の笑い声には、何がなし一脈のさびしさが響いていた。
玄鶯院は何事か思いついたように、
「守人殿」
「はい」
「ちと戸外《そと》へ出られてはどうじゃな」
「――」
「下世話にも病《やまい》は気からと申す。いまの若さに欝気《うつけ》は大の禁物《きんもつ》じゃ。ああ、ええ陽気じゃわい。枯れ木にも花が咲いて、わしがごとき老骨でさえ浮かれ出しとうなるて。わっはっはっは」
「先生、そんな大きな声をお出しになると、新太郎さんが眼をさまします」
「おお、さようじやったな。しかし、今年の春はまた格別じゃぞ」
「わたくしには、その春の命がいかにも短いように思われてなりませぬ」
「またしてもそのような
前へ
次へ
全120ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング