来てみると、いべきはずの安がいない。のみならず、単身饗庭邸に案内を求めると、取り次ぎに出たのが、
「女のような」どころか蟇蛙《ひきがえる》みたいな、久七のお武家とは似ても似つかぬこのごま塩頭だ。
さすがの文次もいささかあわて気味で、
「あの、こちらは饗庭様の――」
といいかけるのを、
「いかにもさよう」と引き取った老用人、「いかにも当家は饗庭じゃ。饗庭亮三郎様のお屋敷じゃが、して、お手前は?」
要を得た呼吸だ。文次はますます下手に出て、
「私は、神田の津賀閑山の店から参りましたが、毎度お引き立てをこうむりまして――」
「黙れ、黙れ」
突如老人は湯気を上げて怒り出した。
「またしても鎧櫃とやらのことを申して参ったのだろうが、今朝も閑山にしかと申し聞かしたとおり、そのような物は当家においてとんと受け取った覚えがない。一度ならばそのほうかたの思い違いということもあろうと存じ、いずれはわびに参るであろうと大眼に見てつかわしたに、いま二度まで乗り込み来たるとは当家に難癖をつけようの所存であろう。
第一、そのほうごときは、門番の許しを受けてお裏口へまわるべきに、誰に断わって大玄関へかかった? ううん? これ、無礼者めが! 帰れ、帰れ。帰って閑山に以後出入りかなわぬと申し伝えろ。不敵な奴じゃ」
文次はここを先途ともみ手をして、
「しかし、間違いでも難癖でもござりません、へえ。あのう、御当家に、お若い美しいお侍《さむらい》さまはいらっしゃいませんでしょうか」
文次も、眼だけは争われない。鋭い光を増してくる。
「なに? 若い美しい侍とな? 知らん、そんな者はおらん」
「へえ、ごもっともさまで、へえ」
と、殊勝げに文次が、ぴょこりとおじぎをして顔を上げたとき、いつのまに来たものか、青筋を立てて威猛高《いたけだか》に肩を張っている老用人の背後《うしろ》、陽の届かない薄紫の室内に、煙のようにぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と、糸のように細長い人影が立っている。
唐流をななめに貼《は》って貸家札
黒羽二重の着流しに白っぽい博多の帯を下目に結び、左手に大業物《おおわざもの》蝋色《ろういろ》の鞘《さや》を、ひきめ下げ緒といっしょにむんず[#「むんず」に傍点]とつかんで、おどろいたことには、もうその、小蛇のかま首のようなおや指が、今にも鯉口《こいぐち》を切ろうとしているのだ
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