とした。声の主は以前《まえ》からそこにいたものらしい、同時に、黒光りの重い板戸が音もなくあいて、敷居ぎわに、半白の用人が端然と控《ひか》えている。
 いろは屋文次、そもそも何のためにこの家を訪れたか。
 それはいわずと知れた今朝がた、津賀閑山に持ち込まれた鎧櫃取りもどしの件である。
 閑山の話では五百両の金を入れた鎧櫃を下男久七の間違いから饗庭へ届けてしまった。それを、あとから返してくれと申し入れても、そんな物は頭《てん》から受け取った記憶《おぼえ》がないという応対。
 これだけのことは閑山の口ででもわかっていたが、一応当の久七からじかに聞き取るために、柳原で安兵衛とわかれたのち、文次は連雀町の津賀閑山方へ立ち寄って、そっ[#「そっ」に傍点]と裏から久七を呼び出してきいてみると、閑山のいったところとたいして違いはない。
 使いの途中、明神下できこし[#「きこし」に傍点]召したばかりに品物を反対《あべこべ》に、鎧櫃を饗庭様へ、九谷の花瓶を向島関屋の里の主人の寮へ――。
「へえ。確かに置いてまいりました」
 という。確かに[#「確かに」に傍点]間違うやつもないものだが人間は田舎者《いなかもの》まる出しの朴訥者《ぼくとつもの》だ。こいつは嘘はいわないと文次はにらんだが、念のため、饗庭の屋敷でどんな人が出て受け取ったかと尋ねると、
「若いきれいなお武家さんで、へえ、まるで女のような方が、ていねいに礼をいって受け取りました」
 そりゃそうだろう、買いもしない、みごとな品が飛び込んで来たんだ、これあ馬鹿ていねいに礼の一つぐらいはいったかもしれねえと、文次はこみ上げるおかしさをこらえて、なおも、主人閑山の在否、問題の鎧櫃の内容《なかみ》などをきいてみると――。
 鎧櫃には具足がはいっていたそうだがそれも何だか、よほど金目の物らしく、主人はあれから狂気《きちがい》のように飛び歩いていて、今も店にいないとの答え。はてな?
 よほど金目の具足? よくいった。小股《こまた》の切れ上がった美人がひとりと数百両の現金、これ以上に金めのものもちょっとあるまい。
 が、そんなこととは夢にも知らないから、ただ、さぞかし安兵衛が待ちくたびれているであろうと、急いで妻恋坂を上った文次の頭には「女のような、若いきれいなお武家」というのが、焼き印みたいに、強く大きく押されているばかりだった。
 ところが、
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