俺を待つように、あんなにいっておいたのに、それにどうだ、影も形もない!
あれから小半刻、どこをうろついているのだろう。そのあいだに何が持ち出されたかしれやしない。
むっ[#「むっ」に傍点]とした文次、往来の上下を睨《ね》めまわすと、屋敷町の片側通りだ、御府内といえ、一つ二つ横町へそれたばかりなのにもうこの静けさ、庫裡《くり》のように寂寞《ひっそり》としたなかに、八つ下がりの陽《ひ》ざしがやけにかんかん[#「かんかん」に傍点]照り返って、どの家からともなく、美しい主をしのばせぶりに、ころりんしゃん、かすかに琴の音がもれている――。
あてにならない御免安を、いつまで怒っていたところで果てしがないと気が付いた文次は、ふ[#「ふ」に傍点]とわれにかえったように、改めて眼の前の、饗庭の屋敷というのへ瞳《ひとみ》を凝らし出した。
禄高《ろくだか》四百石、当時|小普請《こぶしん》入りのお旗下饗庭亮三郎が住まいである。
一口に旗下八万騎といっても、実数は二万五千から三万人、その中に一万石譜代大名に近い一《ぴん》から槍一筋馬一頭二百石の十《きり》まであって、饗庭はどっちかといえば、まずきりに近いほうだから、この屋敷にしたところで五百|坪《つぼ》はないくらい、決してたいした構えではないが、それでも格式だけは大事にして、明様《みんよう》の土塀《どべい》に型ばかりのお長屋門、細目に潜《くぐ》りをあけてのぞくと、数寄屋詰道句風《すきやづめどうくふう》をまねた前庭の飛び石づたいに、大玄関の敷台が見えて、何年にも手入れをしないらしく雑草にうずもれて早咲きの霧島《きりしま》がほころびているぐあい、とにかく、町人づらをおどかすだけのことはある。
すばやくはいり込んだ、文次、折よく誰にも見とがめられずに、追われるように表玄関へかかって、土間に立って案内を乞うた。
「お頼み申します――お頼み申します」
しいん[#「しいん」に傍点]として、人の気配もない。
広い邸内《やしき》に反響《こだま》して返って来る自分の声を聞いたとき、何となく文次は、ぶるる[#「ぶるる」に傍点]と身ぶるいを禁じ得なかったが、気を取り直して、もう一度。
「おたのうもう――」
とやろうとすると、
「誰だ」
低い、けれども霜のように冷たい声、それが、意外にもすぐ前でしたから、文次はちょっとどきん[#「どきん」に傍点]
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