っ引きなど、何人|彼奴《あいつ》の手にかかって、嗜人草のために生命《いのち》を落としたかしれやしねえ。ねえ、親分、なおりしだい引っくくって恐れながらと突ん出すおつもりでがしょう。そうすれゃまた一つ、いろは屋の親分に箔《はく》が附こうというものさ」
御免安兵衛は文次の顔を見るたびに、こんなことを言い言いしていたが、文次は、じろり[#「じろり」に傍点]と安をにらんで守人のこととなると黙っていた。そして、安兵衛をはじめ姉のおこよにも堅くいい含めて、二階に得体の知れない浪人の怪我人がいることなどは、口外はもちろん態度《そぶり》にも見せないようにさせていた。一度などは夜ふけてから、いきなり、
「文次、いるか、ちょっと急な用で、通りがかりに、寄ってみた。方来居のほう、うばたま組のさぐり、諸事、その後はどうじゃな」
こういって思いがけなく同心税所邦之助が乗り込んで来たとき、文次は実に、薄氷を踏む思いだった。
いつも、こういう上役は二階へ招じ上げて対談することになっているのに、その夜に限って階下《した》で話をすることが、何らかで相手を怪しませはしないかと、文次の心配は大変なものだった。二階の守人が寝返りでもして、みしり[#「みしり」に傍点]と音がすると、邦之助が天井をにらむようにする。そのたびに文次は命の縮まる思いをした。
ではなぜ、こんな思いをしてまで岡っ引きたるいろは屋文次が、江戸中の御用の者が、草の根を分けて探している当の死に花の下手人、公儀へ弓引く不逞《ふてい》浪士篁守人をかばわなければならなかったか。
それは文次自身にも説明のつかない心持ちだった。
が、文次の眼には、守人が、そして守人の所業が、守人一人としては映らないのだ。そのかげにある大きな力、人力ではどうすることもできぬ時代の流れといったようなものがあるのをひしひしと感ずることができる。
「おいたわしい。このお方は御自分を犠牲にして、何かしらもっと[#「もっと」に傍点]大きなもの、もっと正しいもの、もっと明るいもののために、働いておらるる、それをお邪魔だてしようとする自分は、取りも直さず古いものの力によって動かされているのではないかしら。――こいつあ一つ考えねばならぬ」
こう思ったとき、岡っ引きとしての文次は死んで、新しい侠児《きょうじ》、いろは屋文次が生まれたのだった。
が、守人の心には文次の真意は
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