てえ野郎の家に隠れているんだ。あの女のお蔦に相違ねえことは、まず人相が合うし、何よりもお前桝目の印を打った小判を持ってやがる」
「するてえと何ですかえ、神田の津賀閑山も同類なんで?」
「いや、そんなこたああるめえ。とはいうが、これあほんの俺の気持ちだからな、閑山も当分にらんでおかざなるめえて」
「なるほど。妻恋坂の饗庭は? 親分」
「饗庭は臭え。が、大物だからな。よほどつかんでかからねえことにあ思わぬどじを踏むぜ。まあ、遠巻きだ。それが上策よ」
 いい終わって、文次は腕を組んだ。
 眼を伏せて、膝の上の御用帳をみつめている。
 この御用帳というのは、いわばいろは屋の自家用覚え書きで、お役人からおおせつかった探索の用事、市井で起こった事件、それらに関する聞き込みなどを、忘却を防ぐために雑然と書きとめておく帳面であった。大福帳みたいに筆太に御用帳と書いた、半紙を横折りにとじた帳面がいつも居間の壁にかかっていた。それが、いろは屋|名代《なだい》の御用帳であった。
 文次は今この御用帳のあるところを開いて、しきりに眼を走らせている。
 ――こんなことが書いてある。
 先般来、江戸に男女二人づれの押し込みが横行して、昨夜は本郷、今夜は芝といったふうに、ほとんど毎晩八百八町を荒しまわったが、先夜この男女の強盗が万願寺屋という品川の造り酒屋へはいって、大奥のお賄方《まかないかた》から酒の代に下しおかれた五百両の小判を奪い去ってからというものは、いっそう詮議がきびしくなった。
 というのは、あまり眼にあまるというので江戸中の岡っ引きが真剣になりだしたわけであるが、実をいえば、眼じるしのある小判を持って行ったというところに御用聞きは非常な望みをかけたのである。遠からず一枚ぐらいは市《まち》へ出てくるだろう――というので、それぞれ町方へ手配をして桝目の小判の現われるのを待っていたが、いくら待っても一枚も出てこない。
 これは出ないわけだ、お蔦が大事をとって使わないで、肌身《はだみ》離さず胴へ巻いて持ちまわってるのだから。
 で、いろは屋文次をはじめ岡っ引き一同が手のつけどころがなくて困っていると、いわゆる天の助けというやつで、津賀閑山が例の鎧櫃取りもどしの一件を頼みこんで来たところから、はしなくもお蔦の居所だけは文次はつきとめることができたが――。
 お蔦の相棒だった男は何者であろう?
前へ 次へ
全120ページ中89ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング