だが、わざと膝で胸を突き上げたから、はらりと懐中《ふところ》の袱紗《ふくさ》が解けて、十手の先が襟もとからのぞく。
 これでたくさん。
 柄《つか》へ掛けた手のやり場に困って、内藤伊織はごそごそ[#「ごそごそ」に傍点]脇腹をかいている。
「覚えておれ」
「きっとこの返報はするからな」
 せいぜいすごみを見せて、伊織と丹三、早々に引き上げて行った。
「いや、どうも悪いやつらで、一時はどうなることかと思いましたが――あ! ところで親分、女はどうしましたえ?」
 閑山は文次の手を取らんばかり。が、
「爺つぁん、あんまり灰《あく》の強い悪戯《わるさ》はしないがいいぜ」
 言い捨てて文次が立とうとすると、手早くいくらか紙に包んだ閑山、文次の手に押しつけようとしたが――、
「おら、その金を閑山のしゃっ[#「しゃっ」に傍点]面へたたきつけて来た」
 と、もうこれはつぎの日である。
 浮世小路いろは寿司の奥。
 朝寝の床から手を伸ばして、こういいながら文次が煙草《たばこ》を吸いつけているそばに、きちんと膝っ小僧をそろえているのは、久しぶりに乾分《こぶん》の御免安兵衛。
 金魚売りの声が横町を流れている。
 風のほしい陽気だ。
「なあ安」文次は眠そうな声、「つい先ごろまで両国に人魚の見世物が出ていたなあ」
「へえ」と安兵衛おどおどしている。
「あの人魚の女は何ていったっけなあ、てめえ日参してたようだから忘れあしめえ」
「お蔦――とかいったようにおぼえていやす」
「さよう。そのお蔦よ。どこにどうしているかなあ」
「へ?」
「安」と起き上がった文次、「われあ妙《おつ》う隠し立てをするぜ。てめえをまいたお蔦あ俺が突きとめてあらあ。これからばっさり網を打ちに行くんだが、ま、そこの御用帳をおろして来い」
 文次は壁にかかっている帳面を指さした。

   月の十日は御下問日

 あれだけの人数がどうして音もなく消えうせたのか、それが税所邦之助《ざいしょくにのすけ》にはわからなかった。
 考えれば考えるほど気が詰まってくる。
 ゆうべの方来居の手入れである。
 水戸藩の志士が一団二団と分かれて江戸に潜入し、佐久間町の岡田屋、馬喰町《ばくろちょう》井筒嘉七《いづつかしち》、さては吉原大門前の平松などに変名変装で泊まり込んでいることはとうに調べがついているのだが、顔の識れない連中が多いし、なまりも、耳
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