何んだかわからないが、はや往来に人が立つほど、丹三の声は威勢がいい。これが閑山には一番痛いとみえて泣かんばかりにあやまっている。
 ふ[#「ふ」に傍点]と文次が台所を見ると、もとは自分から起こったことというので、自責と悲憤に耐えないのだろう。飯たき久七が茶碗酒《ちゃわんざけ》をあおって、泪《なみだ》と鼻汁《はな》をいっしょにこすり上げているさわぎ。いやもう、裏もおもてもたいそうなにぎやかさ。
 この騒動の最中に、伊織がそっと手でもひろげて見せたものと見えて、
「へえ、五両で。よろしゅうございます」
 という閑山の声。つづいて伊織が、
「ばかを申せ。五百だ、五百両がびた一文欠けても引きはせぬぞ」
 いよいよ本筋へはいったのが聞こえた。
 もうよかろうというので、文次は腰を曲げて店へ出て行った。
 ぽん[#「ぽん」に傍点]と前掛けの裾をたたいて、ぴたり伊織の前へすわる。
「どうも先ほどは」
 伊織も丹三も驚いたが、あっけにとられたのは閑山老だ。ぽかんとしている。
「何だ。貴様は」
 伊織、白を切った。文次は笑う。
「よく御縁がござります。へへへ、手前は此店《ここ》の手代で」
「手代? 見たことのないやつだな」
「御冗談でございましょう。お! 御冗談といえばもう一つその御婦人とやらでおなくなりなすったというのもあんまり破目《はめ》をはずした御冗談じゃありませんかね」
「何だと!」
「あの女は生きております」
「どこに、どこにいる?」
 丹三が思わず口を出した。
「ここから丑寅《うしとら》の方に立派に生きております」
「何をいやんでえ! うせ物じゃああるめえし」
「心配《しんぺえ》するねえっ」文次は急に巻き舌に変わった。「いどころは俺が知ってらあ」
「な何と申す?」
「知ってるから知ってるといったんだ。それがどうした?」
「おのれ、無礼なやつ」
「はっはっは、刀に手をかけてどうなさるお気だ。ねえ、物は思案ずく、出るところへ出てちいっ[#「ちいっ」に傍点]と困るのはお前さん方じゃござんせんか。白痴《こけ》が犬の糞《くそ》を踏みあしめえし、下手なしかめっ面あ当節|流行《はや》らねえぜ」
「うぬ、いわせておけば――」
「いくらでもいいます。女が生きてたら文句はあるめえ。見たけれあ明日お奉行所へ来なさるがいい。帰《けえ》れ、帰れ」
 いいながら、文次は、ずかりと胡坐《あぐら》を組ん
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