なかった。
だからいろは屋文次はめったにお縄《なわ》をしごかなかった。が、一度しごけば、それは必ず大きな捕親《とりおや》として動きのないところであった。
お蔦は俺の掌《て》の内だ。明日にでも御用にしよう――。
文次はにっ[#「にっ」に傍点]として、聞き耳を立てた。
津賀閑山が何かじめじめ[#「じめじめ」に傍点]いい出したからである。
「全く識らない女でございますよ。はい、お手先らしい男に追われて店へ飛び込んで来ると、突然《いきなり》、あの鎧櫃を買って自身ではいりましたんで、まことに藪《やぶ》から棒《ぼう》のようなお話ですが、真実真銘、この白髪頭《しらがあたま》に免じて――」
手先らしい男――? と文次が小首をかしげると、猫侍のかれ声だ。
「さようなこと聞く耳持たぬ。神田の閑山として多少は人に知られた貴様と暖簾《のれん》のためを思えばこそ、内済にしてやろうとこうまで骨を折っているのだ」
大変恩にきせている。かと思うと、
「すこしは考えてみろ、出るところへ出れば、貴様の首はたちまち胴を離れるぞ」と一たん張り上げた持ち前の咽喉《のど》をぐっ[#「ぐっ」に傍点]と落として、
「それとも、俺の手にかかりたいか。こら、ぶった斬るぞ野郎、武士たる者へ死んだ女なんぞ送りつけやがって」
科白《せりふ》はだんだんへんにくずれてくるがそれだけ危険の度を増すのが内藤伊織だ。こいつのことだから、閑山の細首ぐらい笑いながらいつぶった[#「ぶった」に傍点]斬らないとも限らない。役者のような容相《かおかたち》にすさまじい殺剣の気と技《うで》を包んでいることは、昼の騒ぎで文次と安がよく知っている。
そろそろ顔を出そうかなと文次が動きかけたとき、
「旦那、まだ往生しませんかい」
と伊織へ声をかけて、表にはまた一人新手が助けに出たようだ。
帝釈《たいしゃく》丹三である。
溝泥《どぶどろ》を呑んだ腹いせに、眼玉を三角にしてがなり出した。
「えこうっ、爺《とっ》つぁん、やに手間あ取らせるじゃあねえか。人殺し兇状《きょうじょう》は、人ごろし兇状はな。いいか、人殺し兇――」
「これこれ、そう大声を発せんでもわかる。なあ閑山」
伊織がとめている。
「なあに、こんな唐変木《とうへんぼく》にあこのくれえでなけあ通じねえんで、大きな声は地声だ。やい人殺し兇状は――と来やがらあ。どうでえ」
何が
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