く眠った。あっはははは」
「ほんとによくお眠《やす》みになりましたねえ」
 女も即座にけろりんかん[#「けろりんかん」に傍点]とよそ行きの口調に返っている。
「面目ないが、何か寝言でもいいましたかえ」
「いいえ。べつに。ほほほ」
 と要領を得ている。
「そうですかえ。とにかくまあ、かぎつけられた巣に長居をすることはない。そろそろお出ましということに。――いや、これは暗いな。なあに、灯はいらない。からだ一つ持ち出せばいいので。はて、と。――この辺に矢立てが――お! あった、あった。これでこのへんのところへこう一つ――」
 何一つ盗まれる心配はないから、家の中なんかそのままにして二人はさっそく土間へおりた。
 外部からしめた障子へ、手探りながら筆太に何かすらすら[#「すらすら」に傍点]としたため終わると、里好は女を促して悠然《ゆうぜん》とめっかち長屋をあとにした。
 行く先は奇怪至極な井底《せいてい》の集会所。
 大股《おおまた》に肩を振って行く里好宗匠のあとから、両袖を胸へ重ねたお蔦が、白い素足を内輪に運ぶ。
 先に立ったまま里好がいう。
「井戸の入口で黒い袋を渡されて、顔もからだも包むんだがな、あんたは髪をもっと引っ詰めて、それから声に気をつけて、中へはいったら万事男のつもりでふるまいなさい」
 こういわれて、お蔦がさっきの里好のかえ衣装を思い出していると、その心を読んだらしく里好は、
「いや、あの袢纒は違う」
 と打ち消して、
「新網に瑞安寺《ずいあんじ》という寺があってな。江戸中の掏摸《すり》の根城になっている。わしはそこで姿を変えてかせいでいたのだ。江州《ごうしゅう》雲州などという、わしの頼みとあらば灯の中水の中へも飛び込もうというすごいのがそろっているが、毎夜本堂に故買《ずや》の市が立って、神田の閑山なんかが出張って来てうるさくて寝泊まりはできぬ」
「神田の閑山というのは、あの津賀――」
「さよう、津賀閑山――お相識《しりあい》かな?」
 とんだ相識、とお蔦が黙っていると、
「食えない爺だ」
 いかさま食えない爺である。
「瑞安寺では顔役で、両国のびっこ[#「びっこ」に傍点]捨《すて》、日本橋の伊勢とならんで鼎《かなえ》の足と立てられているこのわしだが、姿見井戸へ行ってはまるで嬰児《あかご》だて。えらい奴がおるでな。もっとも、顔や名はわからぬが――まま、保養
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