と修行をかねて身を隠すには、この姿見の井戸に越したところはなかろう」
 というきてれつ[#「きてれつ」に傍点]な話。
 同伴《つれ》があると道は早い。
 いつしか広小路へ出ている。
 上野の森へかけて流れ星が一つ夜空をかすめた。

   あの女は生きております

 神田連雀町の裏、湯灌場買い津賀閑山の古道具店へ、一人の侍がはいって来たのは、小半刻《こはんとき》まえのことである。
 主人《あるじ》の閑山とは顔識《かおし》りの仲とみえて、親しげに腰をおろして、それからこっち、またぽそぽそ[#「ぽそぽそ」に傍点]と話しが続いている。
 ここへ、三味線堀からいろは屋がまわって来たが、店にお武家《ぶけ》の客がおると見ると、横手の露路《ろじ》について勝手口へ顔を出した。
「今晩は。おう、久七どん、俺だ、文次だ、いるかえ」
 そうっとあけると、鎧櫃《よろいびつ》以来おなじみの飯たき久七が、おびえたような恰好できちん[#「きちん」に傍点]と板の間にすわっている。
「どうした。久七どん、えらく片づけているじゃあねえか」
「しっ!」久七が制した。「来てるだあよ。お店へ来てるだあ」
「来てる? 何が来てる?」
「湯島の家で俺《おら》がから鎧櫃を受け取った女郎みてえなお侍さんがねじ込んで来てるだ」
 とたんに、泣くような閑山の声に押っかぶせて、記憶《おぼえ》のあるじゃじゃら[#「じゃじゃら」に傍点]声が大きく響いてきた。
「なに? まだそのようなことを申しおるか」
 昼間、饗庭《あいば》の影屋敷の、不可思議な空家の二階で、突如文次たちに斬りつけたあの男美人の猫侍、内藤伊織《ないとういおり》である。
 文次は四つんばいにはって行って、店のすぐ背後に息を凝らした。
 しゃがれ声を押しつけて伊織がしきりにいばっているのが聞こえる。
「何だと? 鎧櫃へ入れたときは生きておった? 黙れ黙れ、それが出したとき死んでおれば貴様が殺したも同然ではないか」
「殺したなぞとめっそうもない。野原の一軒屋ではござりません。隣近所の手前もあります。どうかそう大きな声をなさらずに――」
 閑山はおろおろ、手でも合わしているらしい。
「いいやいや、貴様が殺した。何といっても津賀閑山があの女を殺したのだ」
 妻恋坂の殿様御名代として推参した猫侍の内藤伊織、面白ずくにだんだん声を高めて行くところ、だいぶ脅迫《ゆすり》の場数
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