のほうが一桁上を行ってるようだ。
「よしてくれ」と里好はまだ合の手に鼾を入れて、
「こうやき[#「やき」に傍点]がまわってはあがったりだ。今日なんかも、この手を引く拍子に小指が襟へかかってな、それであの野郎に感づかれたらしい。脚の早えやつだったよ。すんでのことで追っつかれるとこだったが、ついぞない自分の失敗《しくじり》を考えると、わしは安閑としてはいられないのだ。このごろおっかねえ風が吹いて来たぜ」
「ほんとにねえ。そういえばあの男、気になる眼つきをしていたよ」
 と女もちょっとしんみりする。
「あんたは姿見の井戸てえのを知ってるかね」
 きいたのは里好である。
「何だい、その姿見の井戸とかってのは」
「井戸の底だ。江戸じゅうの大悪党の寄り合い場。御存じかな」
「初耳だねえ。どこにあるのさ」
「井戸の底にあるのだ。ある大きなお屋敷のな。――ところで、さっきみてえなことがあってみると、わしもつい弱気になってちっと草鞋《わらじ》をはきてえと思うが、さて、江戸を離れるのは業腹《ごうはら》だ。そこで当分この井戸のたまりで暮らすつもりだが、あんたはここに残ろうと浅草へ帰ろうと、つれないようだが自儘《じまま》にしてもらおうじゃないか」
 と寝言の里好、やにわに変なことを切り出した。
「水臭いことをいうじゃあないの。それあひょん[#「ひょん」に傍点]なことからこうしてお前さんの厄介になって、まだほんとの名前も明かさないあたしだけれど、一日だって一つ釜のお飯《まんま》を食べれあまんざら他人でもないはず。今朝も出がけに自分からわしの妹にしておこうなんていったくせに、忘れっぽいったらありゃあしないよ、ほんとに」
「では、あんたは、お福の茶屋嬉し野のおきんさんではないのか」
「うれし野のおきんとは、世を忍ぶ仮の名、ほほほほ、はばかりながら茶くみ女に見えますかねえ。あたしゃ宿なしのお蔦というふつつか者、幾久しくお見限りなく――とまあ、いうようなわけでさ。一つ気をそろえてその姿見井戸のたまりとやらへ出かけようじゃないか。いろいろ話もあることだし」
「うむ、ついて来るものならとめもしない。よかろう。面白い。またいい目が出ないものでもないからな」
 里好はがっぱ[#「がっぱ」に傍点]とはね起きると、今眼がさめたという形。
「あああうあ!」と、両手を張ってのんきなあくび、別人のような大声。「ああよ
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