ぞけば、水のようなうっすらとした宵闇が三味線堀を渡って来るばかり、人影はない。
 女はそっ[#「そっ」に傍点]と里好の枕べにしゃがんで、
「さあ、うまくいきましたよ。お起きなさいな」
 大事をとって声を忍ばせたが、里好の返事がないので、もう一度くり返そうとすると、すうすうと他愛のない鼾《いびき》、いい気なものだ。里好先生、時ならぬ熟睡の最中とある。
 寝たふりをしているうちにほんとに眠ってしまったものとみえるが、何にしても人を食った度胸といわなければならぬ。さすがの女もこれには舌を巻いた。
「まあ! あきれた人だよ。さんざ[#「さんざ」に傍点]あたしに骨を折らしておいてさ」
 口には恨みがましく出ても、何ともいい知れないたのもしい気がこみ上げてくる。微笑《ほほえみ》を残して眠りをさまさないようにと跫音を忍ばせ、もとの座へ帰ろうとすると、枕の下に、ちら[#「ちら」に傍点]と光る物が女の眼にはいった。

   気味の悪い風が吹いて来たぜ

 小判である。
 拾い上げて見ると、眼印がある。
 抜けるように白い女の顔に、驚愕《おどろき》が紅をさした。
「あれ!」危うく声を立てようとして口を押える。「まあどうしてこの人がこの小判を※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
 これは確かに自分の小判。もっともあの神田の津賀閑山の店で鎧櫃へひそんでから、まだ一度も財布《さいふ》をあらためたことはないけれど、もし落としたとすれば鎧櫃に揺られていたときに相違ない。それをどうしてこの人が持っているのだろうか?
 この人とてもまともの渡世でないことはさっきの騒ぎでもおよその想像《あたり》はつこうというもの。今来た男からでもとったのだろうか。とするといまの男は何者で、いったい全体、どこから小判を手に入れたか?
 考えていたって始まらない。とにかく一応自分のほうを数えてみようと、里好が眠っているのを幸い、小窓に寄って女は胴巻きを抜き出した。
 触れ合うたびにちろちろ[#「ちろちろ」に傍点]と鳴る黄金の木の葉が、一枚二枚と白魚のような指先に光を添える。五枚六枚七、八、九――勘定していくと、どうしても一つ足らない。
 特別の御用金に金座から大奥お賄方《まかないがた》へ納めた分として一つ一つの小判の隅に、小さな桝目《ますめ》の印が打ち出してあるのだから金輪際《こんりんざい》間違いっこない。里好のはまさし
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