ら来てここへはいるのを見ましたがねえ」
「お人違いでござんしょう」
 突っ放すようにいい切ると、文次の顔にちら[#「ちら」に傍点]と険が動いた。
 これは油断がならない。女はいっそうやわらかに出る。
「ほんとに困ってしまうんですよ。病身でしてねえ。はあ、この一月ってものは、まるで脚腰《あしこし》が立たないんでござんす。ま、お掛けなすって、お茶でも一つ――」
「いや、もうおかまいなく」
 文次もすまして上がり框《がまち》に腰をおろし、ちら、ちらと女を見ると、女は物思わしげにうつむいて、火鉢の灰をかきならしている。貧乏世帯を苦にせず病夫にかしずいている世話場の呼吸《いき》だ。おくれ毛が二、三本、艶に悩ましい気色である。
 たそがれ刻《どき》の裏町。
 鉄瓶《てつびん》が松風の音を立てている。こっとりとした静寂《しずかさ》だ。
「あのう、何ですかえ」と文次。「師匠はお眠《やす》みですかえ」
「はあ、よく寝ておりますから失礼させていただきます」
 あとは二人、またしてもばつ[#「ばつ」に傍点]の悪い無言の行。いつ果つべしとも見えない。と、つと文次がたち上がった。
「一つ上がってお見舞い申しましょう」
 框に足を掛けると、愁《うれ》いを含んだ女の眼にあざやかな嬌笑《きょうしょう》が流れた。
「さあ、どうぞ――むさくるしいところでお恥ずかしゅうござんすけれど」
 ともう立って来て、そこの座蒲団を裏返して、晴れやかに文次を待っている。
 こうなっては明らかに文次の負けだ。
「いえ、なあに」文次はまごついた。「何も今日とは限りません。はいいずれそのうち、またゆっくりと寄せてもらいましょう」
「でも、せっかく――」
「へへへ、つい御近所まで来たもんですから」
「あの、御用は?」
「へい、いや、師匠によろしく」
「ほほほ、お名前は――」
「名なんざあ何でもようがさあ」
 このところ文次さんざんのていたらくだ。逃げるようにとび出して、うしろ手に格子をぴしゃり――ほっ[#「ほっ」に傍点]とすると同時に、急にしっかりした見得《けんとく》が文次の胸を衝いた。
「そうだ、あいつに違えねえ、たしかお蔦《つた》とかっていったっけなあ」
 と戸外で文次が、きっと何か思案を決めたらしかったが、これは家内《なか》の女は知らないから、しばらく呼吸を凝らしていると、どうやら文次も立ち去ったようすで、小窓からの
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