どきこわあい[#「こわあい」に傍点]眼をするようだが――」
考えていたって始まらない。
まあ、いいさね。
そのうちにはわかるだろうよ。
ひとり者の乱雑さは、いつも女性《にょしょう》を親しい心持ちに微笑させるものだ。
姐《ねえ》さんかぶりに女房々々した女、やがてかいがいしくばたばた[#「ばたばた」に傍点]そこらの掃除《そうじ》をはじめた。
「まあ、たいそうなほこりだこと!」
押入れをあけると洗濯物《せんたくもの》の山。
「ほほほほ、よくもこうためたものだねえ」
べったりすわってくすくす[#「くすくす」に傍点]笑っているうちに、女はふっ[#「ふっ」に傍点]とさびしくなった。これが、思う殿御との新世帯なら――。
三輪《みのわ》あたりに住まいして、わたしは内で針仕事。
丸髷《まるまげ》姿の自分を描いて、女は小娘のように、ぽうっと頬をあからめた。
壁に三味線がかかっている。久しぶりの爪《つま》びき。
「恋すちょう身は浮舟のやる瀬なさ、世を宇治川の網代木《あじろぎ》や、水にまかせているわいな」
夢みるような瞳《め》、横ずわりの膝をくずして、女は、いつまでもうっとり[#「うっとり」に傍点]とひいていた。
すべての憂《う》さが忍び音の唄《うた》と糸とに溶けて行く。
女の頬に、涙の糸が白く光っていた。
そうしたまま、夕風の立つのも知らずにいた。
突然、戸外《おもて》にあわただしい跫音がして、がらりと格子があいた。一拍子に飛び込んで来た異様な男。
盲目縞《めくらじま》の長袢纒《ながはんてん》、首に豆絞りを結んでいる。
よく見れば、主人《あるじ》、手枕舎里好ではないか!
どこで着かえたものか、まるで別人だ。それが、
「お、おきんさん!」
と血相を変えて駈け上がったが、とみには口もきけずに縦横無尽に手まねをしている。
女はうろうろ[#「うろうろ」に傍点]するばかり。
このとき、三味線堀へ出る韓信橋《かんしんばし》を、昌平橋《しようへいばし》から掏摸《すり》を追っかけて来たいろは屋文次が、息を切らして走っていた。
渡ればこの家の前。
「野郎、どうもこのへんで消えたようだて――はあてね」
――と、そこの格子が文次の眼にとまった。
御用帳
お人違いでござんしょう
「野郎、どうもこのへんで消えたようだて――はあてね」
妻恋坂影
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