、あそこはどこでござんしたろうねえ」
「明神下の四つ角だったよ」女は低声《こごえ》につぶやいた。
「するとあの家は、湯島妻恋坂の上あたりかしら?」
 里好が聞きとがめた。
「あの家たあどの家だね」
「いえね」女はあわてた。「その、ただ空家《あきや》でござんす」
「お前さん、何かえ」と里好は用事でも思いだしたように立ち上がって、「これから浅草《おくやま》へ帰る気かね。わしゃもう米櫃がからだから一まわりして友だちをいたぶ[#「いたぶ」に傍点]って来るが」
「いえ、あの、自家《うち》へ帰ってもつらいことばかしでござんすから、もしお差しつかえないようでしたら、しばらくお宅へ置いてくださるわけには参りませんでしょうかねえ」
 ここを先途と送る秋波は、里好には通じない。先生さっぱりとしたものだ。
「かまわないとも。独身者《ひとりもの》ののん気な世帯だ。お前さんさえいたいなら、いつまででもいなさるがいい。だが待てよ、この節はばかに人別がきびしくてな、大家のほうへは何と届けておこう?」
「さあ――妹とでも」
「冗談じゃない。わしみたいな唐茄子《とうなす》に、そんなきれいな妹があってたまるもんか。が、まあ、そこは何とかつくろって妹ということに口を合わせよう。はははは。では、わしは出かけるからね、寝るなと起きるなと気ままにして留守を頼みますよ。なに、夕方までには帰ります」
 いいながら里好、すっぱり脱いで着かえにかかった。
 手を添えに立った女は、その牛のようにたくましい体格に驚いてしまった。
 狂歌の先生には必要のない、隆々《りゅうりゅう》たる肉の瘤《こぶ》、しかも鍛えのあとが見えている。
「面白かったな昨夜は」里好腕をさすってひとり悦に入っている。「木っ葉野郎どもを投げ飛ばしたが、しかし、考えてみると、めっぽう弱いやつがそろっていたようだ」
 といささか不審そうな顔。そりゃそのはず。むこうは自力でころんだんだ。が、たとえ真気《ほんき》にかかっても、このからだには歯が立つまい。
 これが道楽であろう。服装《なり》だけはりゅう[#「りゅう」に傍点]として凝ったもの。蔵前《くらまえ》の旦那《だんな》みたいに気取り返って、雪駄《せった》を突っかけて出て行った。
「行ってらっしゃいまし」
 と送り出した自称おきん、自分の何者であるかを棚《たな》へ上げて、
「はて、あのお方は何だろうねえ。とき
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