向こうをのぞくようにしたが、もとより人っこひとりいはしない。
「ふむ。いい土性っ骨だぜ」妙に感心して坊主頭を振り立てた奴、「だがね、その手は桑名《くわな》の焼き蛤《はまぐり》だ。なあ、お前《めえ》が今しがたあそこのお邸を抜けて来たてえこたあこちとら[#「こちとら」に傍点]百も、承知なんだ」
 女はしゃがんで、はだしの足を隠している。
「四の五のいわずにお供させてもらいてえな」
「えこう、殿様あお待ちかねだぜ」
「じゃあ何かえ」と急に歯切れがよくなった女、そっ[#「そっ」に傍点]と土をつかみながら「お前たちは、あの吃りのお侍さんに頼まれて、わたしを連れもどしに来てくれたとおいいかえ。そうかい、それは御苦労だったねえ」
 と、いい終わるが早いか、女の手がすっ[#「すっ」に傍点]と上がって、ぱさっ[#「ぱさっ」に傍点]――物のみごとに眼つぶしをくらった坊主頭、だつ[#「だつ」に傍点]っととび下がって、
「わあっ!」
 顔を押えた。女が土をぶつけたのだ。
 同時に、二、三人を左右へ投げ飛ばして、女はすきをねらってかけ出した。
 口々にののしりさわいで追って来る。
 足弱のところ、勝手の知れない町なみだ、とても逃げおおせるわけはない。
「ひーとーごーろーしいーっ!」
 とっさの機転に叫んではみたものの、物騒な真夜中のことだから、たとえ聞きつけても雨戸一枚あける人はない。そのうちに、ゆるんでいた帯がずるずると解けて蛇のように地面をひきずる。
 そのままで女は走った。
 走りながら帯をたぐろうとすると、どしん[#「どしん」に傍点]とからだがうしろへ引かれたように感じて、追っ手の一人が帯の端を踏んだ。
 ええ面倒な!
 くるくるとまわして帯を残して、また一走りと踏み出したが、押えた前のあぶないのに気がつくと、女はぺたり[#「ぺたり」に傍点]とその場にすわってしまった。
 そうして追っ手が駈け寄ったときには、女は蝦《えび》のように、大地にごろりと寝そべっていた。
 自棄《やけ》のやん八、どうなとなれ。
 女の姿がそういっていた。
 くくりのない着物から土の上に蒼白《あおじろ》い膚がこぼれているぐあい、凄艶《せいえん》すぎて妖異な情景。
「洒落《しゃれ》たまねをしやあがって――」
「太え女《あま》だ」
「白え歯を見せるから悪いんだ」
 なに、たいして白い歯でもない。真っ黄色な乱杙歯《
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