し、かつ君臣の名義大いに混乱致し、はなはだしきは徳川幕府あるを知りて、天皇のあるを知らずに至り候――」
惻々《そくそく》として胸を打つ声。
そこへ守人が帰って来たわけ。
茶のしたくをしていたへらへら[#「へらへら」に傍点]平兵衛と二、三言話をしていると、物音を聞きつけて遊佐銀二郎が立ってきた。
と、台所の軒下、滝《たき》と落ちる雨だれのなかを、黒い影がすうっ[#「すうっ」に傍点]と横ぎるのを守人は見た。さっ[#「さっ」に傍点]と戸をあけて――、
かあっ、ぺっ!
守人が唾《つば》を吐きかけると、影はころぶように生垣《いけがき》の闇黒に消えた。
「何でござるな?」
銀二郎がきいた。守人はぴしゃりと戸を締めた。
「御用心! 手がまわったと見えまするぞ」
「何の」銀二郎は一笑に附した。「犬じゃ、犬じゃ。雨に迷うた宿なし犬じゃ。おそるることはあるまい」
「さよう」
何ごころなく眼を返した守人は、銀二郎の顔が、不純な心配と恐怖にゆがんでいるのをみて取った。
さては此奴《こやつ》め内通でも――?
いやいや、 まさか!
「さよう」と守人がにっこり[#「にっこり」に傍点]して、「だがしかし、その犬も歩けば棒に当たるとか申しましてな」
といった時、篠《しの》突く雨の音を消して、家の周囲《まわり》にどっ[#「どっ」に傍点]と人声が沸き立った。
「しらべの筋あって南町奉行隠密まわり同心|税所邦之助《ざいしょくにのすけ》出張致した。開門、かあいもうーん!」
奥と台所で同時に燈火《ともし》を吹き消した。
漆黒《うるし》の闇。
やけのやん八どうなとなれ
鎧櫃で、どこともなく変な旅をしたあの女。
ようようのことで吃りの殿様と猫侍の屋敷をのがれ出て、だらだら坂をおりてほっ[#「ほっ」に傍点]と一息。
まずよかった。
ここもお江戸の町らしい。
――角の小店で途《みち》を聞いているところへ、背後《うしろ》で多勢の跫音がしたので、振り返ってみると、いま来た坂を五、六人の男がばらばらばら[#「ばらばらばら」に傍点]っと駈けおりてくる。
追っ手だ!
と知るや、女はきっとなった。
同時に振りから腋《わき》の下へ手を差し入れて懐中《ふところ》の小判包みをしっかり押えて、しゃなり、しゃなりと歩き出した。
うまくゆくかどうか、ま、一つとぼけてやれという気。
で、
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