場処は、現実に、ここなのだった。おおいなる驚異と、とうとう来るところへきたという、不可思議な安堵とが、お久美のなかに渦まいた。松原の露が、素足にかかった。頭上に鳴きかわす烏の声を聞きながら、かの女は夕陽に片頬を染めて、雑草のなかにしゃがんでいた。垣根のあとの捨て石に、青苔が、濡れて、光っていた。こころだけが江戸へ帰って、池の端の伏見屋で見た岩井半三郎の死絵を映像に、一心に凝視めていた。長いこと、じっとそうしていた。
 お久美は、ほがらかに微笑んでいた。

 暴風雨《あらし》に追われて、おひさの離家《はなれ》に帰ったお久美は、いそいで、江戸へかえる旅仕度をはじめていた。
 が、この、急に来た雨と風だった。いますぐ発足することは、できなかった。
「とにかく、朝まで待ちましょう。そして、今夜は眠《ね》て夢を見ないように、ずっと起きていることにしよう。」
 くらい行燈だった。
 南から襲ってきたあらしは、足が早かった。天を地へ叩きつけるような、すさまじいけしきになって来ていた。大粒な水滴が庇《ひさし》を打って、かわいた道路に、見るみる黒い部分が多くなって行った。雲の下に、低く雷がころがって白い
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