る歓待が用意された。漁期でないので、家にも、村にも、浜にも、微風と日光と静寂のほかは、何もなかった。それが、予想以上に、お久美のこころを休めたのだった。かの女は、一日じゅう、戦いの終ったような軽い気もちで、渚を歩いたりした。そこには、恐怖も不安も、なかった。自分を抑さえていた黒い手が、除かれた気分だった。無意識のうちに、あの夢の女形の望みどおりに動いて、一時かれを満足させているかのように、夢も、休止の状態だった。もう現れないように思われて、かの女は、ひそかに安心していた。感謝していた。江戸の生活、良人のこと、子供たちのことが、遠い昔の思い出のようにこころに来て、それだけが、かの女の伴侶《とも》だった。同時に、もう毎日の退屈を、持てあまし出していた。
六
村は、海に面して、丘のふもとにあった。身体に力がついてくるとともに、あの丘のむこうはどうなっているだろうかと、そんな興味がかの女をとらえた。午後おそくだった。独りで、そっちのほうへ歩いて行って見たのだった。
海の動かない、鬱した日だった。焼けた砂のにおいが沈みかけて、木の葉が、白くあえいでいた。南の水平線に、灰いろの
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