が、静かにふり向くと、ふき上げるような庄吉の哄笑《わらい》だった。
「冗談じゃあない。何が怖いもんか。だが、毎晩大きな声で起こされたんじゃあ、からだが保たないからな。わたしは、昼忙しいだけに、夜はぐっすり寝かしてもらいたい。ははははは。」
 医者の見立ては、はじめからわかっているとおりだった。お久美は、身体も、頭脳も、どこも何ともないのだった。ただすこし何か気を使い過ぎて、疲労しているだけだった。あの不安な夢を見つづけるのは、からだのぐあいの結果ではなく、その原因なのだった。それには、まず土地を更えて、しばらくぶらぶら遊んでいるのが、一番いいということになったのだった。この江戸の暑さからかの女を移して、どこか涼しいところで静養させるのが、第一だというのだった。まったくこのごろの狂気じみた暑さが、人の神経に異様に影響しつつあることも、事実だった。完全に環境をかえる。医者は、そういいたいのだった。
「居は気を移す、と申しますでな。」
 そんなことを言って、帰って行った。

 つめたい、新しい海岸の空気を、お久美はすぐに想った。ぼんやり歩きまわって、夜は、よく眠れるに相違なかった。夢のない熟
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