顔だった。瘠形の若い男だった。役者なのだった。女形《おやま》に相違なかった。
 とうとう夢でばかりなくなった。現実にも来たのだ。夢と現実のさかいがなくなったのだ、と、お久美は、とっさに思った。
 よろめいたので、お兼が、びっくりして支えようとした。その手を、ほとんど打つように払い退けて、絵へ近づいた。
 岩井半三郎と、その女形の名が書いてあった。あまり聞いたことのない役者だった。画工は、勝川豊春としてあった。これも、あるいは故人で、二流三流なのでもあろうか、かなり通であるはずのお久美に、はじめての名前だった。
 夢の岩井半三郎は、いつも着つけがはっきりしないのだけれど、絵は、藍摺《あいず》りの死に絵だった。
 これでみると、描かれた岩井半三郎も、描いた勝川豊春もともに昔の人ではあるまいか。絵も、挨りをかぶって、古びて、手擦れがしているのだ。お久美は、そう観察して、お兼のおどろきにまでじっと絵の顔を白眼んでいた。

      五

 それは、こころの力を傾ける格闘だった。いまこの圧倒的な恐怖に負けることは、今後、夜となく昼となく、発狂せんばかりに悩まされることを意味するのだった。お久美
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