のと、そんな不吉な夢じゃあなし、いいよ。気にしっこなし!」
叱るようにこころに繰り返して、やっと晴ればれしかけたが、あの、夢で自分を待っているような気のする男というのは、誰だろう? ふとそう思うと、かの女は、不必要にどきりとした。
考えまい。考えないことにした。いくら考えても、わかるはずがないのだった。お久美の意思が、そう固くきめられたとき、簾戸《すど》があいて、庄吉の元気な顔が、茶の間へはいって来た。
若わかしい、恰幅《かっぷく》のいい庄吉だった。驚くべく夢とは関係のない、およそ現実な存在だった。
お久美は、たのもしかった。ふり仰いで迎えた眼に、やわらかい媚びがあった。
「どうなさいました。」
「江島屋の納品が片づかねえので、やきもきさせられる。」
「まあ、一服なすってからのことになさいまし。」
「暑いな。拭いてもふいても、汗で、やりきれない。」
すわりながら、
「見てくれ。これだ。」
背中を向けた。上布が、円く、水を置いたように濡れていた。
「江戸に、こんな夏は初めてです。気が狂いそうだ。何だ、切通しの猿飴か。ありがたい。」
下戸《げこ》なので、お久美の絶やさない甘い物を頬ばって、
「だらけねえじゃねえか。感心だの、この飴は。」
「到来物《とうらいもの》でござんす。」
「どこから?」
お久美は、うつくしい線にからだを反らして、うしろの茶箪笥の棚から、二、三枚重ねた散らしのような紙をとった。
「伏見屋から、二丁町の鸚鵡石《おうむせき》に添えて、挨拶にまいりました。」
日本橋通油町の鶴屋とともに、役者の似顔絵などで聞こえた絵草紙屋伏見屋は、このお数寄屋町の上庄から一足の、池端《いけのはた》仲町にあった。
「そうかい。そりゃあ気がきいている。」
「また芝居絵の珍しいのが、新しいのも古いのも、たくさん出ものが揃いましたから、おひまの節お立ち寄り下さいますようとの、口上でござんした。」
こどものように、にこにこして、庄吉は、黙ってその、出たばかりの市村座のおうむ石を取り上げて挑めていた。
鸚鵡石というのは、各座とも狂言ごとに作って、絵草紙屋や芝居のなかで売る、あれだった。茶屋からの見物には、桟敷でも、平土間でも、役割と、この、鸚鵡石という絵草紙はかならず出るのだったが、そうでない客は、小銭を出して買わなければならなかった。仲売りが、菓子などとともに、「おうむせきえぞうしばんづけ」と、呼び売りして歩く習慣だった。役者の絵に、その狂言の台詞《せりふ》が書き抜いてあって、声色《こわいろ》の好きな人の便宜にそなえてあった。諸国の名所に、山彦を伝える鸚鵡石というのがあって、鸚鵡が声を返すように聞こえるところから、そう呼んでいたが、この絵草紙は声色の具だというので、その石に因《ちな》んで誰となく名づけたのだった。たいがい紙五杖ぐらいのもので、はじめの片面に、名ある浮世絵師が淡彩で俳優の肖像《にがお》を描き、版摺りも、かなり精巧なものがすくなくなかった。
上庄は、芝居絵が好きで、ことにこのおうむ石をあつめることは、かれの唯一の趣味だった。
自然、お久美も、そういったほうの絵を、よく見ていた。
三
「伏見屋へも、しばらく足が遠いな。」
ふところに、団扇の風を送って、庄吉がいった。
「御無沙汰つづきで、敷居が高うござんしょう、ほほほ。」
「まあ、そういったところだ。残念だが、まだ当分、抜けられそうもない。第一、この暑さでは、いくら好きな道でも、絵なんぞ見に出かける気にはなれませんよ。お前、かわりに見ておいで。」
「ええ、そのうち。」
お久美が、気がなさそうに答えると、
「それがいい。気散じに、兼でも伴れて行ってきなさい。面白いものがあったら、もらって来るがいい。」
と、庄吉は、急に思い出したように、
「おお坊主どもは?」
「やっと昼寝して、ほっとしているところでござんす。」
「おおかた、悪戯の夢でも見ていることだろう。」
夢、という忘れていたことばが、かすかにお久美の顔いろをかえた。庄吉は気がつかずに、
「どれ、一仕事。」
立って行った。
瞬間、呼びとめて、朝からあんなにこころを圧して来た夢のことを、話そうかとも思ったが、笑われるだけにきまっているので、あなた、と出かかった声を呑んで、
「まあ、お気の早い。お召更えなすったら。」
「いいやな。またすぐ汗になるんだ。」
はなして、慰められたところで、何のたしにもなるのでなかった。ことに、夢で誰かが待っているような気がする。庄吉の愛に冷水を落すようで、そこまではいえないのだった。やはり黙って、そして、できるだけ考えずにいたほうがいい。かの女は、この会体の知れない恐怖感に、しっぽり全身を漬けて、それをじぶんだけのものとして酔い痴れていたい気もちもあっ
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