溶けこんで行っていた。そこへ、何の前ぶれもなく、ゆうべあの夢が返って来た。しかも、以前の何倍もの強さと鮮かさをもって、それは、警告的にさえ感じられるものだった。頭脳の底の深いところが揺すぶりかえされて、そこから、少女時代の極彩色の恐怖が、群がり立ってきた。それは、お久美にとって、身の毛のよだつような、美しさだった。
といっても、単純な、それだけとしては、充分無害な夢だった。高い断崖の上は、短い草が、海からの風に一せいに寝かされた。広い野原だった。一本の砂の小径が、陽に光って、うねっていた。お久美はそこを、何か急用があるように、ひとりでいそぎ足に歩いていた。二十歩ばかり左手は、もう崖縁で、はるか下に、白い海が騒いでいた。お久美の拾っている路は、両側に低い潅木の繁みを持って、ゆるい勾配で山のほうへ上っていた。ところどころに、足掛りの丸太が、階段のように二つ三つずつ横倒しに置かれてあった。あちこちの草むらから、鳥が立って、あたまのうえで鳴き交したりした。
人には、ひとりも会わなかった。逢ったことがなかった。いつも、陽の沈むちょっと前だった。夕方だから急がなければならない。かの女は、そう考えて、長い影を引いて足を早めるのだった。往先に、誰かが待っている気がした。それは誰だかわからないが、誰でもいいのだった。誰でもいい、ただ、その人は、その男は、長年そこにじっと立って、じぶんを待っていてくれるのだ。そんなことを考えているうちに、傾斜を上り詰めて、お久美は、一団の磯松が、きちがいのように一方にばかり枝を伸ばして群生している砂地へ出た。来るべきところへきた。そんな気がして、かの女は、ほっとした。あの人はどこかこの辺に隠れているに相違ない。不意にそこらから飛び出して、驚かすつもりであろう。悪戯好きな、性悪なお方! お久美は、同じようにいたずららしい眼で、あたりの夕闇をすかし見た。
二
路は、松のあいだを抜けて、暗かった。日光が届かないのか、根元の雑草の葉に露があって、白く浮いて見えるかの女の素足を濡らした。松原を出はずれたところに、古い小さな寺があって、本堂の屋根が、灰いろに傾いていた。寺は、打ち棄てられたような墓地の真ん中に立っているのだった。崖のきわの庫裡《くり》などは屋根がとれて、裸かの柱が読まれた。畳に草が生えて、家をとおして泡立つ海が見えた。
夢の旅は、きまってここで終っているのだった。胸の騒ぐ気味のわるい景色だった。暮れて行く海と、寒ざむしい古寺と、高く低く飛ぶ烏の羽音と鳴き声だけでも、お久美を恐怖に駆るに充分だったが、夢は、子供の時分幾晩つづけてみても、草一本、石ひとつの位置も変らなかった。夕陽の色、寺の屋根の影、段だんに崩れる浪のかたち、見るたびにすべてがおなじだった。草むらから鳥の立つ、その場処もきまっていた。足に露がかかって冷たいと思うところも、すこしの狂いもなく一定していた。かの女は、この夢のなかの自分のほうが、ほんとのじぶんよりも、自分に慣れて、きめられたとおり安心して呑気に振舞えるような感じさえした。そしてそれに気がつくと、びっくりして※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]き出して、大声に助けを呼んでいるうちに、眼が覚めるのだった。
夢は、ゆうべ、成人して人の妻となり、母となったお久美に、ふたたびよみがえった。
細部まで、むかしと変らない夢だった。ただ、夢のうえにも、十年の春秋が流れていただけだった。十年の風雨は、夢のどこにでも見られた。だから、すこしも変らないようで、細部まで、十年のあいだの自然の変化を、まざまざと示していた。崖の崩れたところがあった。眼下の浪うち際の凹凸が十年間水に噛まれて、削られて、激しく形をかえていた。小径の段が、朽ちて、砂に隠れていたりした。寺の屋根はすっかり落ちて、置物のように地に据わっていた。庫裡は、柱もわずかに残っていた、壁も倒れて、古材木の醜い堆積でしかなかった。山門だけが、元のままに踏みこたえていた。墓場の石も、昔のとおりに乱立していた。垣根のあった個所に、せいの高い草がしげって、見おぼえのある捨て石に、青苔の層が十年の厚みを加えていた。
変ったのは、夢の風景ばかりではなかった。一心に道を辿って行くお久美も、少女から人妻、そして三人の母にまでかわっていた。変らないのは、その古寺の近くに誰かが待っていて、自分はその人に呼ばれて、惹かれて、こうして急いでいるのだという、抱きしめたいような感情だけだった。
「ほんとに、あんな変な夢ったら、ありゃあしない。」
下町の女らしく、お久美は、ちょっと伝法に、剃りあとの青い眉をひそめた。
「どうしていつも同じ夢ばかり見るんだろう。でも、たかが夢じゃあないか。それに、べつに海へ飛びこむの、お墓からお化けが出る
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