た。
 その夜お久美は、何度も手を伸ばして、庄吉のたくましい腕や肩に触ってみながら、眠った。

 夢は、すぐに来た。
 かの女は、海岸の崖に、風に吹かれて立っていた。引き潮だった。夜にかわろうとする薄明のなかで、いつもは水に覆われている砂地が、遠くまで銀いろに光っていた。海草や、不思議な海の小動物が、そこここに、花のような毒々しい色だった。こういう現象は初めてだったが、いつもの場処であることに変りはなかった。地上に載った寺の屋根の片側に、宵が濃くなりつつあった。草も、墓石も、呼吸づいて、しいんとしていた。立樹の背景には、白い空が沈もうとしていた。磯松の列が、一方だけ手をひろげて、その下に、いま来た小みちが、ほのかだった。お久美は、一瞥にそれらをおさめて、やっぱり来てしまったという気がした。そして、十何年もそこに自分を待ってきた人を待つこころで、草のなかにしゃがんで、海を眺め出した。予期した恐怖も、湧いてこないで、何だか、ひどく事務的な気もちだった。いまに、何かが出て来る。とうとう現れる。ただ、しきりにそう告げるものがあった。少女のころから、そして昨夜も、かの女は、その男が姿をあらわすのを待たずに、※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]き足掻《あが》いて夢から逃れたのだったが、今夜は、今夜も、駈け去りたい気が強いのだけれど、足が鉄のように砂にめり[#「めり」に傍点]こんで、動かないのだった。それが、かの女には、奇体《きたい》に快くもあった。それでも、二、三度首をまげて、うしろを見たりした。山の側には、もうすっかり夜が這って、海にだけうすい白光が揺らいでいた。
 官能が、お久美を捉えかけていた。それは、こんなはずはないが、と、恥かしさのなかでかの女を怒らせたほど意外にも性的なものだった。お久美は、はっとした。襲って来る情感に抵抗して起ち上ろうとしたとき、眼の前に男の顔があるのを見た。男も、うずくまっているらしく、顔は、かの女の顔と水平のところにあった。はじめて見る顔だった。くっきりした輪廓だった。うすく緑を帯びた、すき透るような皮膚に、白い額部が、冷びえと冴えていた。おっとりと笑いをふくんだ、切れ長の眼だった。まじまじとかの女を見つめていた。女のような、形のいい小さな頤《あご》を、引き気味にしていた。ぞっとするほど通った、高い鼻だった。おちょぼ口が、いまにも噴飯《ふきだ》しそうに歪んでいた。自分の生れるまえから相識《しりあい》のような、なつかしいものに思われる顔だった。痩形の若い男だった。
 お久美は、じっとしていた。ほほえみ返していた。その男の呼吸《いき》を頬に感じた。口びるを、口びるに感じた。恐しい気もちはなかった。これが不義というものなのか、と、噛みしめるように味わって、感覚の通り過ぎるのを待っていた。が、急にかの女は、これはいけない、こういうことはあるべきではない、と強い意識が働き出して、たましいとからだの全力を絞って男の抱擁から逃れようともがいた。男の胸に両手を突っ張って、離れるが早いか、薮といわず、石原といわず、大声に叫んで走り出した。暗いむこうに明りが見えて来て、じぶんを呼ぶ声が耳のそばでした。
「どうした。」
 暑いので、開け放した縁からの月光に、蚊帳《かや》が揺れていた。お久美のうえに、庄吉の顔が大きくひろがっていた。
「あの人、あの人がまた来たんです。」
 庄吉は、部屋のあちこちへ眼を走らせた。
「あの人? 誰も来やしないよ。」
「夢なんです。」微笑して、「何刻《なんどき》でござんしょう。」
「何どきにも何にも、いま寝たばかりだ。お前は、枕に頭をつけたかと思うと、すぐうなされ出したのだよ。」
「嫌な夢。あの人は、これからまた毎晩のように来るでしょうよ。」
 庄吉の表情に、嫉妬に似た、真剣なものが来た。
「話してごらん。」
 眠りから覚めたばかりの半意識のうちに、何をいったか、お久美は気がついた。
「何でもございません。ばかばかしい夢。」
 深い眼をしてお久美を見つめたきりで、庄吉は、追究しようとしなかった。
 枕をならべて眠《ね》ている子供たちをみてやったのち、お久美は黙って、また寝《しん》に就いた。

      四

 つぎの朝、蒼い顔で起き出たお久美は、庄吉がおもての店へ出て行ったあと、きのうのように、自分とじぶんに対坐するような心もちで、茶の間にすわった。
 かの女は、庄吉のまえに、拭い切れない罪を犯したような気がして、じぶんが、自分のからだが、不潔なものに思えてならなかった。庄吉も、なんとなくあの夢を感づいて、ゆうべから、急に夫婦の間に溝ができたのではなかろうか。不安と憂鬱が、鞭のようにかの女を打ちのめしていた。自分の識らないうちに、恥ずべき大きな秘密を背負わされているといった感じだった。お久
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