美は、その不当さに腹が立った。同時に夢の美男の顔が、身も世もなく慕わしいものとして、ふっとあたまの隅に萌《きざ》したりもするのだった。かの女は、自分の異常な恐怖観念以外、何も怖れる理由のないことをおそれているのだと、じぶんに言い聞かせた。あの顔の現れたのは、昨夜がはじめてだったが、あれは、こどもの時分から、あらわれようとして現れないで来た顔だった。見ないでも、よく知っている顔なような気がした。よしこれから何度出て来ようとも、それがこのじぶんの実生活のうえに何の関係があるのだと考えてみた。かの女に、みだらないたずら心のないことは、かの女自身が一番よく知っているのだった。それさえはっきりしていれば、何も怖がることはないのだった。あとは夢の見識らぬ男が来て、かの女の感覚を弄ぶなどと、それは、かの女の知ったことではないはずだった。良人の愛に守られ、富に護られ、子供の愛に生きているお久美だった。少女のころの夢が返ってきたからといって、それが何の重大さを意味し得ようとそうじぶんを叱る一方、かの女は、気を詰めてゆうべの男を想い出して、かれによってそそられた情感の甘さを、くり返しくりかえし味わうように、こころに転《ころ》がしていた。夢は、お久美にとって、もう夢ではなかった。第二の、そして、より現実な現実だった。
「こどもの時も、夢に、あの顔を見たことはなかったかしら。何だか、見たおぼえがあるような気もする。お久美ちゃんがもっと大きくなったら呼びに行く、そういった声も、聞いたことがあったっけ。」
 十年のあいだに、山と海の模様に、自然の変化が見られた。男の顔も、老けたように思われた。そして、自分は、妻となり、母となり、立派におとなになったので、約束どおり迎えに来たのだろうか。いくら考えても、同じことだった。考えるということは、その望ましくない夢の印象をいっそう深くして、くる夜も来る夜もそれに悩まされなければならないという恐れを抱くだけだった。
 からりと、煙管を捨てて、お久美は、起ち上った。
 手を叩いた。
「兼や、あの、ちょっと出かけますからね。」

 戸外は、日光が白かった。馬鹿ばかしい夢などとは無関係に、人が、いそがしく往来していた。お久美は、べつの世界へ来たような気がして、今までの恐怖が、暗い、愚劣な穴ぐらのように、微笑をもってかえり見られた。
 幻影なぞといったものを踏み散らす気もちで、晴ればれとしっかりした足どりで歩いて行った。
 横町のむこうに、炎天の下の不忍の池が、眼に痛いほど強く光っていたりした。気に入りの女中のお兼が、下駄を鳴らしてつづきながら、何かしきりにおどけたことをしゃべっていた。
 お久美は、きのうの良人との会話《はなし》を思い出して、足が自然に、池之端仲町の伏見屋へ向くに任せていた。好きな芝居の絵でも見たら、こころもちがぱっとするだろうというのだった。
 番頭や主人にとび出されて、挨拶したり、ちやほやされたりしたくなかった。それには、都合よく、伏見屋は混んでいた。いろいろな俳優《やくしゃ》や美人の似顔や、なまめかしい女の立ち姿などが、店いっぱいの壁に掛ったり、ひろげられたり、つみ上げられたりしていた。桐の箱にはいって、高く重なっているのもあった。畳紙に挟んだのを、小僧がうやうやしく取り出して来て、客に見せていた。一隅では、勤番者らしい侍が二、三人、江戸の土産《みやげ》にというのであろう。美人画を選りながら、ひとりが低声に卑猥なことでもいっているとみえて、崩れるような笑い声を立てていた。名所図絵を繰って、もっともらしく首を捻っている隠居風の老人もあった。お店者《たなもの》ていのが、わらい絵らしいのを手早く買って、逃げるように出て行くところだった。
 さむらいたちが、はいってきたお久美へ、いっせいに眼を向けたので、かの女は、江戸の女の誇りを傷つけられたように、すこしつんとして、横の壁に眼をやった。絵は、そこにかかっていたのだった。
 ぼんやり見つめて、その絵と、向かいあって立っていた。
 心臓が跳び上って来て、咽喉をふさぐ気もちだった。血がたしかに一時とまった。そしてすぐ、はげしく騒ぎ出した。心理的な嘔気が、お久美に突きあげてきた。かの女の見ているものは、あの男の肖象だった。
 くっきりした輪廓だった。うすく緑を帯びた、すき透るような皮膚に、白い額部が、冷えびえと冴えて見えていた。おっとりと笑いをふくんだ切れ長の眼が、気のせいか、絵からまじまじとかの女を見返していた。女のような、形のいい小さな頤を引き気味に、ぞっとするほど通った高い鼻だった。絵でも、見ようによっては、おちょぼ口が、いまにも噴飯《ふきだ》しそうに歪んでいた。夢と同じに、お久美にとって、生れるまえから相識のような、たまらなくなつかしいものに思われてならない
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