顔だった。瘠形の若い男だった。役者なのだった。女形《おやま》に相違なかった。
とうとう夢でばかりなくなった。現実にも来たのだ。夢と現実のさかいがなくなったのだ、と、お久美は、とっさに思った。
よろめいたので、お兼が、びっくりして支えようとした。その手を、ほとんど打つように払い退けて、絵へ近づいた。
岩井半三郎と、その女形の名が書いてあった。あまり聞いたことのない役者だった。画工は、勝川豊春としてあった。これも、あるいは故人で、二流三流なのでもあろうか、かなり通であるはずのお久美に、はじめての名前だった。
夢の岩井半三郎は、いつも着つけがはっきりしないのだけれど、絵は、藍摺《あいず》りの死に絵だった。
これでみると、描かれた岩井半三郎も、描いた勝川豊春もともに昔の人ではあるまいか。絵も、挨りをかぶって、古びて、手擦れがしているのだ。お久美は、そう観察して、お兼のおどろきにまでじっと絵の顔を白眼んでいた。
五
それは、こころの力を傾ける格闘だった。いまこの圧倒的な恐怖に負けることは、今後、夜となく昼となく、発狂せんばかりに悩まされることを意味するのだった。お久美は、はげしく自分を鞭撻して、睨み倒さずにはおかないといった意力をこめて絵に見入った。絵の、しずかな眼が、かの女の視線を受けとめて、弾きかえした。絵の顔が、かすかに笑いを拡げるにつれて、お久美も、知らずしらず、ほほえまずにはいられなかった。客のこみあう、狭い絵草紙星の店で、かの女は、岩井半三郎と二人きりで対しているのだった。
お久美は、にっこりした。店員のひとりが、そばへ来ていた。
「いらっしゃいまし。豊春の岩井半三郎の死に絵でございます。だいぶ古いもので、七十年ぐらいのものでございましょうか。」
「兼、出ましょう。」
逃げるように、伏見屋の店を出た。
死絵というのは、死んだ俳優の似顔絵のことだった。うすい藍摺りが特色で、この豊春筆岩井半三郎のそれは、白無垢を着て悄然と立っているすがただった。背景に、三途の川の杭が見えて、さびしいけしきだった。伏見屋の者のいうとおり、絵の主の岩井半三郎も、画家の勝川豊春も、七十年ほど前に死んでいるのだった。
七十年まえの役者の顔だった。それがどうしてこの、縁もゆかりもない自分を、こんなにまで呵《さいな》むのだろうか。冷静にかえったお久美は、不思議なのを通りこして、途方もなく愚かしいことに感ずるだけだった。こどものころにどこかであの絵を見たことがあって、その時の恐ろしい印象が、記憶の下積みになって意識の底に潜在しているのだろうか。そして、それが、地下を流れる暗い小川のようにつづいて来て、時どき心理の表面に夢となってあらわれる。そんなことがあるだろうか。しかしお久美は、どう考えても、あの絵を見たおぼえがないのだった。
夢は、その夜もかの女へ来た。つぎの晩も、夢を見た。庄吉が真剣に心配し出したほど、お久美は眼に見えて、瘠せおとろえて往った。
悄《やつ》れたかの女のまえに、庄吉の呼んできた医者が、すわっていた。
庄吉は、世のすべての夢などというものから、極端に離れた、常識家らしい顔をにこにこさせて、
「お久美、よく診てもらうがいい。魘《うな》されることを、お医師さまに詳しく話してみな。何だか知らないが、わたしはどうも馬鹿なことを気にしているとしか思えないのだ。心気の凝りというやつ、ねえ、先生、そんなところでございましょう。」
医者は黙って、お久美の顔を見ていた。
「やっぱり、あなたも怖くなったんでございますね?」
お久美が、静かにふり向くと、ふき上げるような庄吉の哄笑《わらい》だった。
「冗談じゃあない。何が怖いもんか。だが、毎晩大きな声で起こされたんじゃあ、からだが保たないからな。わたしは、昼忙しいだけに、夜はぐっすり寝かしてもらいたい。ははははは。」
医者の見立ては、はじめからわかっているとおりだった。お久美は、身体も、頭脳も、どこも何ともないのだった。ただすこし何か気を使い過ぎて、疲労しているだけだった。あの不安な夢を見つづけるのは、からだのぐあいの結果ではなく、その原因なのだった。それには、まず土地を更えて、しばらくぶらぶら遊んでいるのが、一番いいということになったのだった。この江戸の暑さからかの女を移して、どこか涼しいところで静養させるのが、第一だというのだった。まったくこのごろの狂気じみた暑さが、人の神経に異様に影響しつつあることも、事実だった。完全に環境をかえる。医者は、そういいたいのだった。
「居は気を移す、と申しますでな。」
そんなことを言って、帰って行った。
つめたい、新しい海岸の空気を、お久美はすぐに想った。ぼんやり歩きまわって、夜は、よく眠れるに相違なかった。夢のない熟
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