睡を持って、この、身を締めつけるような苦悩から漸次に恢復する。そう想像するだけでも、それは、今のかの女にとって、何よりの歓喜であり、誘惑であった。ひとりで行っていなければならないことは、いうまでもなかった。
この方法に、お久美が簡単に同意したことは、庄吉がちょっと意外に感じたくらいだった。夫婦のあたまに同時にうかんだのが、上総の佐貫《さぬき》の在、百前《ももさき》から海へ寄った谷由浜《やゆはま》という小さな漁村だった。先年暇をとって退って行ったが、長く上庄《かみしょう》の女中頭をしていたおひさの故郷で、おひさの生家は、土地でも相当の漁師だった。
江戸の人は、気が早かった。翌朝早く、お久美は、出入りの鳶の者を供に、その上総の谷由浜へ向ったのだった。江戸から、二十三里のみちのりだった。
おひさが、どんなよろこびをもって、旧主家の内儀を迎えたか、それはいうまでもなかった。田舎の人の、おかしいほどの質朴さがお久美を包んで、思わず微笑まれることが多かった。風防けの松林の砂浜をへだてた、黒い板塀の一部が、おひさの家だった。さほど見ぐるしくない離家《はなれ》が、お久美の居室ときめられて、あらゆる歓待が用意された。漁期でないので、家にも、村にも、浜にも、微風と日光と静寂のほかは、何もなかった。それが、予想以上に、お久美のこころを休めたのだった。かの女は、一日じゅう、戦いの終ったような軽い気もちで、渚を歩いたりした。そこには、恐怖も不安も、なかった。自分を抑さえていた黒い手が、除かれた気分だった。無意識のうちに、あの夢の女形の望みどおりに動いて、一時かれを満足させているかのように、夢も、休止の状態だった。もう現れないように思われて、かの女は、ひそかに安心していた。感謝していた。江戸の生活、良人のこと、子供たちのことが、遠い昔の思い出のようにこころに来て、それだけが、かの女の伴侶《とも》だった。同時に、もう毎日の退屈を、持てあまし出していた。
六
村は、海に面して、丘のふもとにあった。身体に力がついてくるとともに、あの丘のむこうはどうなっているだろうかと、そんな興味がかの女をとらえた。午後おそくだった。独りで、そっちのほうへ歩いて行って見たのだった。
海の動かない、鬱した日だった。焼けた砂のにおいが沈みかけて、木の葉が、白くあえいでいた。南の水平線に、灰いろの雲の峰が立って、あらしを予告していた。お久美は、何となく急《せ》きつかれるような思いで、目的地に重大な用事を持っている人のように、いつの間にか、裾をからげていそいでいた。砂地に潅木の繁った丘を上りつめると、切り立ったような断崖のふちの、ちょっと広い野原へ出た。曲りくねった小径が、導くように遠くへ走っていた。それが、ゆるい勾配《こうばい》をもって、また一つ先の小山のほうへ、渡り板をさしかけたように、坂になっているのだった。ところどころに、朽木《くちき》が横倒しに置かれて、足がかりの段になっていた。ぼんやりと、だが、しかし息を切らして、お久美はそこを登って行った。人かげに驚いて、草むらから鳥が立った。潮風に矯《た》められて一方へだけ枝を伸ばした磯松の列が、かの女の視野へはいって来た。つぎに、かの女の見たものは、荒れ果てた墓地をまえに無残につぶれている古寺の屋根と、そこと崖の縁とのあいだの、以前《もと》庫裡《くり》のあったらしい場所に、なきがらのように積み上げてある材木の山だった。はるか眼の下に、白い波の線が、岩を噛んでいるのが見えた。
石一つ、草いっぽん、夢のけしきと同じだった。夢にみる場処は、現実に、ここなのだった。おおいなる驚異と、とうとう来るところへきたという、不可思議な安堵とが、お久美のなかに渦まいた。松原の露が、素足にかかった。頭上に鳴きかわす烏の声を聞きながら、かの女は夕陽に片頬を染めて、雑草のなかにしゃがんでいた。垣根のあとの捨て石に、青苔が、濡れて、光っていた。こころだけが江戸へ帰って、池の端の伏見屋で見た岩井半三郎の死絵を映像に、一心に凝視めていた。長いこと、じっとそうしていた。
お久美は、ほがらかに微笑んでいた。
暴風雨《あらし》に追われて、おひさの離家《はなれ》に帰ったお久美は、いそいで、江戸へかえる旅仕度をはじめていた。
が、この、急に来た雨と風だった。いますぐ発足することは、できなかった。
「とにかく、朝まで待ちましょう。そして、今夜は眠《ね》て夢を見ないように、ずっと起きていることにしよう。」
くらい行燈だった。
南から襲ってきたあらしは、足が早かった。天を地へ叩きつけるような、すさまじいけしきになって来ていた。大粒な水滴が庇《ひさし》を打って、かわいた道路に、見るみる黒い部分が多くなって行った。雲の下に、低く雷がころがって白い
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